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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「崖っぷちセールスマン」花千世子

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第63回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「崖っぷちセールスマン」花千世子

目の前にあったのは吊り橋だった。

木とロープだけでできており、ぱっと見ただけでもずいぶんとオンボロだということがわかる。

吊り橋がかかっているのは崖で、この橋から落ちれば崖の下に落ちて即死は免れないだろう。

僕はキャリーケースを持った右手にぐっと力を込めた。

こんな橋、渡れるわけがない。

だけど、渡らなければ、橋の向こうにある屋敷に行けないのだ。

今から僕が、保険のセールスをしようとしている屋敷に。

別に、このおっかない屋敷はあきらめて他の安全な家を回るべきだ。

そう思うのだが、意地悪な僕の上司は、この屋敷の持ち主である花園という男から契約を持ち帰れ、さもないと……。

そんなふうに僕に言ったのだ。

営業成績がめっきり悪いので、さもないと……の続きはわかる。

わかるのだけれど、命を引き換えにしてまで成績を伸ばしたくはない。

「うん。そうだ」

僕は吊り橋に背を向けて、別の家を探そうとした。

その瞬間。

僕は腹を抑えて思わずしゃがみこんでしまう。

腹痛だった。

これは、大変マズイ。

なぜならトイレに行きたいからである。

今すぐに行きたい。

しかし、周辺には何もない。

あるのはこの吊り橋とその向こうにある屋敷だけだ。

トイレを借りるなら、ここが一番早い。

しかし、この吊り橋だけは渡りたくない。

そうこうしている間に腹痛の波が収まってくる。

よし、この間に他の民家や公衆トイレがありそうな場所に移動しよう。

僕が数歩進んだところで、再び腹痛の波がやってきて立ち止まる。

脂汗が額から流れた。

いい歳をしてズボンを汚すか、それとも吊り橋を渡るか。

答えはすぐに出た。

「ズボンを汚せば部長が周りに言いふらすに決まっているっ!」

僕は勢いをつけるかのように吊り橋へと歩みを進める。

とにかく前だけ見て、吊り橋を渡った。

慎重に、でもなるべく早足で。

そこでふと気づく。

あれ? この吊り橋、思ったよりも揺れないな……。

こんなボロボロだからさぞかし揺れて、嫌な音がするのも覚悟していたのだが。

そして僕はとうとう吊り橋を渡り切る。

その時には腹痛は収まってしまっていた。

「おお、珍しいな」

そう言って中年の男が家の中から現れる。

男は僕を見て、こう聞いてきた。

「怖かっただろう?」

「はい。でも、思ったよりも頑丈ですね」

「そりゃあ鉄骨でできとるからな」

「え? でも木製ですよね?」

「ああ、あれは特殊な加工で木製に見せているだけだよ。ワイヤーもロープに見えるようにしてある」

「なぜそんなことを?」

「こうすれば、防犯にはなるし、度胸のないセールスマンは来ない」

男は満足そうに笑うと、僕に握手を求めてくる。

「私は花園泰三。君は?」

「ええっ? 花園泰三さんって、あの花園グループの社長さんですか?」

社長は大きく頷く。

「それで君は、セールスか?」

「はい。保険のセールスなんですが……」

社長はにかっと笑ってこう言った。

「それでは、私だけではなく花園グループはおたくの保険に入ることにするかね」

僕はその言葉が一瞬、どういう意味なのかわからなかった。

ホッとして喜んだのも束の間。

腹痛がぶり返してきた。

(了)