阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「崖っぷちセールスマン」花千世子
目の前にあったのは吊り橋だった。
木とロープだけでできており、ぱっと見ただけでもずいぶんとオンボロだということがわかる。
吊り橋がかかっているのは崖で、この橋から落ちれば崖の下に落ちて即死は免れないだろう。
僕はキャリーケースを持った右手にぐっと力を込めた。
こんな橋、渡れるわけがない。
だけど、渡らなければ、橋の向こうにある屋敷に行けないのだ。
今から僕が、保険のセールスをしようとしている屋敷に。
別に、このおっかない屋敷はあきらめて他の安全な家を回るべきだ。
そう思うのだが、意地悪な僕の上司は、この屋敷の持ち主である花園という男から契約を持ち帰れ、さもないと……。
そんなふうに僕に言ったのだ。
営業成績がめっきり悪いので、さもないと……の続きはわかる。
わかるのだけれど、命を引き換えにしてまで成績を伸ばしたくはない。
「うん。そうだ」
僕は吊り橋に背を向けて、別の家を探そうとした。
その瞬間。
僕は腹を抑えて思わずしゃがみこんでしまう。
腹痛だった。
これは、大変マズイ。
なぜならトイレに行きたいからである。
今すぐに行きたい。
しかし、周辺には何もない。
あるのはこの吊り橋とその向こうにある屋敷だけだ。
トイレを借りるなら、ここが一番早い。
しかし、この吊り橋だけは渡りたくない。
そうこうしている間に腹痛の波が収まってくる。
よし、この間に他の民家や公衆トイレがありそうな場所に移動しよう。
僕が数歩進んだところで、再び腹痛の波がやってきて立ち止まる。
脂汗が額から流れた。
いい歳をしてズボンを汚すか、それとも吊り橋を渡るか。
答えはすぐに出た。
「ズボンを汚せば部長が周りに言いふらすに決まっているっ!」
僕は勢いをつけるかのように吊り橋へと歩みを進める。
とにかく前だけ見て、吊り橋を渡った。
慎重に、でもなるべく早足で。
そこでふと気づく。
あれ? この吊り橋、思ったよりも揺れないな……。
こんなボロボロだからさぞかし揺れて、嫌な音がするのも覚悟していたのだが。
そして僕はとうとう吊り橋を渡り切る。
その時には腹痛は収まってしまっていた。
「おお、珍しいな」
そう言って中年の男が家の中から現れる。
男は僕を見て、こう聞いてきた。
「怖かっただろう?」
「はい。でも、思ったよりも頑丈ですね」
「そりゃあ鉄骨でできとるからな」
「え? でも木製ですよね?」
「ああ、あれは特殊な加工で木製に見せているだけだよ。ワイヤーもロープに見えるようにしてある」
「なぜそんなことを?」
「こうすれば、防犯にはなるし、度胸のないセールスマンは来ない」
男は満足そうに笑うと、僕に握手を求めてくる。
「私は花園泰三。君は?」
「ええっ? 花園泰三さんって、あの花園グループの社長さんですか?」
社長は大きく頷く。
「それで君は、セールスか?」
「はい。保険のセールスなんですが……」
社長はにかっと笑ってこう言った。
「それでは、私だけではなく花園グループはおたくの保険に入ることにするかね」
僕はその言葉が一瞬、どういう意味なのかわからなかった。
ホッとして喜んだのも束の間。
腹痛がぶり返してきた。
(了)