阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鍵のゆくえ」吉田猫
コインロッカーの鍵が無い。着ているスーツのすべてのポケットを探し、手持ちの鞄の中も全部見た。無い。安田高雄はロッカーの前で途方に暮れた。
何故だ。朝ここで二日分の荷物が入ったキャリーバックをこのロッカーにしまい、鍵をかけて上着の右のポケットに間違いなく入れた。そこまでは覚えている。問題はその後だ。ハンカチを取り出す時に落としたか?いやハンカチは左のポケットに入れている。今日一日の難しい仕事をやっと終えて、愛する妻子が待つ我が家へ新幹線に乗って急いで帰ろうと思ったのに。落ち着け。落ち着いて考えよう。まずは座ろう。そしてゆっくりと思い出すのだ、と安田は自分に言い聞かせた。
安田はテレビドラマの犯罪心理捜査を思い浮かべた。目撃者を瞑想させ失われた記憶を取り戻すよくあるやつだ。心を落ち着かせ今日一日の時間を遡るのだ。ちょうどロッカーの向かいにコーヒーショップがある。安田は店に入ると女性の店員にブレンドコーヒーを注文し受け取ると一番奥のカウンダーの席に座った。店の中は運よく空席が目立ち静かだった。安田はコーヒーを一口飲むとネクタイを少し緩め目を閉じて鍵をかけた朝の時間に静かに心を戻そうとした。
俺はロッカーに百円玉を入れて鍵をかけると、その鍵を右のポケットに入れた。ポケットは落とす可能性があるから後で手持ちの鞄に移しておこうと考えた。そうだ鞄のこの小さなファスナーの中だ。いや違う。結局入れるのを忘れたのだ。念のためそのファスナーを開いてみたが当然鍵は入っているはずもない。その後俺はどうした。次に進もう。安田はまた目を閉じた。
俺は電車に乗り仕事先へと向かった。それからどうした。そうだ目的地について俺は目の前のその小さなビルを見上げたのだ。そして非常階段を上り今日の依頼先である目的の会社、飯塚興行に裏口から中に侵入した。クライアントからもらった事前の情報通りこの時間は社長の飯塚しかいないことを確認した。そっと飯塚に忍び寄り後ろから首にロープを掛け締め上げた。何も間違っていない、すべて予定通りの動きだ。余計なことはしていない。鍵を落とすはずもない。俺は飯塚の遺体を自殺に見せかける工作をするとあたりを見回して何か間違いはないか確認した。そうだ、間違いなく確認した。鍵なんか落としているはずが無い。ここまでは間違いないのだ。安田は目を開けるとコーヒーをまた一口飲んだ。
それからどうした。飯塚興行の仕事が手際よく終わったので予定を早め食事もとらずにもう一件の仕事先に向かったのだ。裏口を出ると来た道を戻り駅に向かった。駅でトイレを借りて用を足すといつものように念入りに手を洗った。だって気持ち悪いじゃないか人殺しの後は。でも今はそんなことはどうでもいい。その時ポケットからハンカチを出して手を拭いたがそれは鍵を入れたのとはやはり反対のポケットだった。俺は電車を隣の駅で降りると五分ほど歩き目的の大命壮というアパートを見つけた。ここが次の仕事場だ。そこには相田という男が二階の端の部屋に住んでいる。クライアントの女性によるとこいつは女の敵らしい。俺は二階に上がると用意していた運送屋っぽい帽子をかぶりロープを準備して相田の部屋のインターホンを押した。中から物音がした時「お届けものです」と声を出した。ドアが開いた瞬間に靴を差し込み中に押し入った。後は簡単だ。後ずさりする相田の首にロープを掛けるとそのまま締め上げた。それで終わり。後は自殺に見せかけるだけだ。あたりを見回し確認した。この時も何も間違いは犯していない。平常運転だ、落とし物などあるはずも無い。俺は少し乱れた服装を直し倒れた椅子を戻すと流しで手を洗い相田のタオルを借りて手を拭いた。静かに外に出てゆっくりとドアを閉めた。その部屋からは寄り道もせずにまっすぐここのコインロッカーまで帰ってきたのだ。
安田はまた目を開いた。また一口コーヒーを飲むと今日一日何も間違いが無いと確信した。それでは一体どうして鍵が無いのだ。わからない。くそっ!、あせりと苛立ちが募り安田はスーツの裾を握りしめた。ああ!何かが裾に入っている。ポケットに改めて手を入れると糸がほつれて穴が開き裏地の中に鍵が落ちているのが分かった。安田は俯き、くくと込み上げてくる笑いを我慢した。あった、ロッカーの鍵だ。喜びに包まれながら少し冷めたコーヒーを味わうようにチビチビと飲んだ。ああ家に帰れる。ロッカーのキャリーバッグの中には我が子に買ったルービックキューブも入っている。妻にも何か買って帰ろう。
会社での昇進も内定したし、人には言えないがこの土日の副業も好調だ。去年はローンで家も買った。夕暮れに窓から漏れる我が家の明かりは宝石のようだと安田はいつも思う。
パパは頑張るぞ、と小声で呟いた。
(了)