阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「雨の日曜日の夜の物語」岡本一紀
日曜日の夜。彼女のアパートのドアを開いて外に出ると雨が降っている。部屋の中にいると気づかない程度の静かな雨だ。玄関に折りたたみ傘が置いてあったのを思い出す。再びドアを開こうとして、ノブにかけたままの手を止める。傘を借りても、もう返すことはできない。そっとノブを離して身体を反転させ、外廊下を伝い歩いて階段を下りる。
降り始めてから少し時間が経過しているらしい。路地の街灯はすっかり濡れている路面をほの明るく照らし、生垣の葉先を光らせている。背中を丸め、水たまりを避けながら小走りに表通りに向かう。一日がかりで別れ話をした。いくら話しても結論は変わらなかった。
いちょう並木の表通りに面したパーキングの精算機に駆け寄る。昼間は満車だったが、今はほとんど空いていてがらんとしている。精算機と無機質なやり取りをして料金を支払う。車に乗り込みエンジンをかける。ダッシュボードに置いてあったハンカチを手に取り濡れた髪を拭こうとして首を傾げる。いい匂いがする。午前中、海を見に行った時の彼女の忘れ物だ。使わずにそのままダッシュボードに戻す。
こちらを出発した時には晴れていたのに徐々に雲が広がり、着いた頃には空も海も重苦しい灰色に覆われていた。遥か彼方に見える水平線が、ぼんやりとその境界を限っていた。彼女はコンクリートで固められた防波堤の上で、長い髪をなびかせ少し寒そうに自身の肩を抱いていた。海を眺めながら感じたのは、二人の間の距離だけだった。彼女が何を見ているのかはわからない。彼女はもう私と同じ方向を見てはいない。帰りがけに、化粧品を取り落とした彼女がこのハンカチでシートの端を拭った。
彼がアパートのドアを閉じる音を背中で聞き取ろうとする。その音を聞いたらすぐにロックをしに行こう。そして踏ん切りをつけよう。しかし、いくら待っても音はしない。どうしたのだろう。振り返ると、ドアは閉じ彼はいない。どうやらノブをそっと手離し出て行ったらしい。いつもはそんな気遣いはしないのに。
靴箱の上の、ハンカチに巻かれた飲み残しのコーヒーの缶に気づいて手に取る。海から帰った時に置いてそのままになっていた。潮風に吹かれて心地よく身体が冷えていた時に、彼はホットコーヒーを買って自分のハンカチを巻き手渡してくれた。曇った空の下、防波堤の上から眺めた海は、周囲と同じ鈍色のままどこまでも広がっていた。海を眺めながら感じたのは、二人の間の距離だけだった。彼が何を見ているのかはわからない。彼はもう私の方を見てはいない。頭の上では海鳥の群れが翼を広げ、気まぐれに方向転換を繰り返していた。もしかすると彼はこのハンカチを取りに戻ってくるかもしれない。いや、戻ってくるわけはない。思い切ってドアをロックする。
ゆっくりと車を発進させ、パーキングからいちょう並木の表通りに出る。さっき抜けてきた路地の入口はひっそりと闇の中に沈んでいる。遠くに見える彼女の部屋の窓の明かりが、すでになつかしい。いつも帰り際にはここからあの窓の向こう側の彼女に別れを告げていたが、これで最後だ。
国道に出てスピードを上げる頃には、雨足はかなり強くなっている。フロントウィンドウには雨粒が間断なく叩きつけられる。ワイパーが扇形に切り取った視界だけが鮮明だ。しかしなぜか前を走る車のテールランプが徐々に滲んでくる。ワイパーのスピードを上げてみるが変わらない。一体どうしたのだろう。そう思った時、ふいに頬を生暖かいものが伝う。
無意味なコマーシャルの続いているテレビのスイッチを消すと、部屋の中はしんと静まり返る。ふと雨音に気づく。窓を開けてみると、すでに本降りになっている。外から湿った空気が流れ込む。彼は傘もささずに路地を抜けて行ったのだろうか。
いちょう並木の表通りのパーキングには、もう彼の車はない。辛くなるので、今まで一度もこの窓から彼の車が走り去るのを見送ったことはなかった。もちろん、これからもない。窓を閉じカーテンを引く。何も見えなくなった窓の向こう側の彼に別れを告げ振り向いた時、まぶたの内側が重くなり、熱いものがこみ上げてくる。こらえようとしてもこらえきれない。
それは後から後からあふれ出てきて止まらない。本当に、別れた方がよかったのか。もう一緒にいる意味はないのか。いや、やめよう。
私は一瞬だけためらい、別れた相手の残していったハンカチを手に取り涙を拭う。