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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「バベルの蛇」鎌田伸弘

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第53回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「バベルの蛇」鎌田伸弘

バベルの電灯をつけると、いっしゅん足元を何かがカサカサッと動いたような気がした。見ればそれはすぐに本と本の隙間に入り込んで、もう正体はわからない。ゴキブリだろうか。いや、もうすこし大きかったはずだ。ネズミか? いや――、「カサカサ」とはいったが、今あらためて思えば「スルリ」と形容したほうが正確なような気がしてきた。では蛇か? まさか。蛇がバベルに侵入するとは、ちょっと考えにくい。しかし山と積まれた書物と書物の間にするするっと逃げ込んださまは、蛇がもっとも近いようだ。いずれにせよ、もう今となってはその何かを見つけ出すのはほとんど不可能である。それくらいこのバベルには本があふれかえり、踏み場もないほどなのだ。

バベルというのはわたしが勝手に名づけ、わたしひとりが呼んでいるわたしの書斎である。書斎とはいっても、自宅の一室の、八帖ほどのちっぽけなものであるが、そこに収められた書籍の数はおそろしく膨大である。室内の三方には、天井まで届く書棚が設えられ、そこに入りきらない本は判型ごと、あるいはカテゴリーごとに、秩序を持って棚のまえに積み上げられるだけ積み上げてあり、書斎の空間のすべてを埋め尽くしている。唯一窓のある一方にはわたしの書き物机があり、あとはそこと、この部屋の出入り口を結ぶわずか三歩ほどのスペースがあるのみだ。

本は、むろんすべてわたしが購入、または寄贈されたものである。全部読んだのか、などと訊くのは愚問である。書というやつはそもそもが読めないもの、というのが愛書家や蔵書家にとってのもっぱらの持論なのである。

つまりわたしは、この書物らとともに生きているということなのだ。本がわたしそのものであり、わたし自身がこの万巻の書全体なのだ。哲学、文学に始まり、芸術、歴史、科学、果ては雑誌から漫画に至るまで、あらゆる知がここにはあるのだ。つまり、ここはいわば知の宇宙だ。そして宇宙は日々膨張し、進化する。本はたんなるモノだが、物は本質に先行する。だから人の知的欲求も一秒たりとも休まずに増大する。そう、まさにバベルだ。

とはいえ、さっき行方をくらました蛇が気にかかる。まさか紙を喰い荒らしはしないだろうが、排泄物で神聖なる書を穢されないとも限らないのだ。そういえばここ数年、蔵書の整理をし直そうと考えていたところだし、埃の量も相当なものになっているに違いないだろうから、いい機会かもしれない。思い切って実行することにしよう。うまく整理できれば、まだあと二千冊くらいはあらたにスペースが確保できるのではないか。

翌日、さっそく着手することにした。これ幸いと朝から家人が外出し、帰宅も遅くなるとのことで、絶好の日となった。まずはドアと机を結ぶ、わずか三歩の自由な空間を広げるところからはじめる。すぐそばを占めている雑誌群を崩し、自由に動けるスペースをつくるのだ。年度ごと、出版社ごとに分けて積まれた文芸誌を少しずつ廊下に運び出してゆく。山を崩さないよう慎重にやるのだが、これがなかなか気を遣う。かつて高名な評論家が、本を蔵するには十冊ないし二十冊ごとに紐で括って束にしておくことだといっていたが、まさにその通りだとおもう。

ある程度自由なスペースが確保できたら、あとはこっちの山をあっちに移して、あっちの山をこっちにずらして、というふうに整理してゆく。山の下のほう、とくに床に接している本に、埃が想像以上に附着している。家人の使っているハンドクリーナーを拝借して丁寧に吸い取ってゆく。文芸誌はともかく、週刊誌のたぐいは処分してもいいだろう。NHKのテキストなんかも、もはや不要なものばかりだ。掃除をしながらも、蔵書の見直しにも余念はない。そうやってあらたな蔵書のための場をすこしずつ作ってゆくのだ。

午前中で雑誌と漫画の整理がついた。順調である。しかし蛇はいっこうあらわれる気配を見せない。いつの間にバベルから逃げたのだろうか。昼食をとり、午後からは文庫本の一角に手をつける。岩波文庫を皮切りに、講談社、新潮と崩してゆく。むかし三冊百円の古本屋のワゴンで買ったものも多いから、カヴァーのないのもけっこうある。ドストエフスキーや太宰など、夢中で読んだ学生時代を想い出し、しばしノスタルジーに浸る。

むきだしの新潮文庫を持つ手がふと止まった。おや。ベージュの表紙の中央に描かれているはずのひと房のブドウがない。色褪せて、消えてしまったのだろうか。そんなふうには見えない。タイトルと著者名はきちんとある。慌てて他の新潮文庫もなん冊か手にとって見る。ない。これもない。こっちもだ。カヴァーのかかった、比較的あたらしい安部公房をひっぺがす。やはりない。消えている。そして、蛇――おそらくは楽園を追われてきたであろう――は、まだ姿をあらわさない。