阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「遠い入り江」石黒みなみ
息子は窓の外が気になって宿題がはかどらないようだ。
「ねえ、パパ、あれ花火?」
この超高層ビルは高断熱、高遮音だ。遠くの真っ暗な入り江に、音もなく散る光だけが見える。リビングに続く小部屋でパソコンに向かいながら、私もちらちらと窓の外を見た。夜になっても外は相当な暑さのはずだが、ここはエアコンがきいて涼しい。
「パパはお仕事中よ。邪魔しないで」
キッチンから妻が声をかけた。いい匂いがしている。煙は高機能の換気扇に吸い込まれ、ここは快適だ。
「もう少ししたらご飯にするから、さっさとやっちゃいなさいね」
「うん、わかった。じゃあ、パパもだね」
返事をしないでいると息子は追い打ちをかけてきた。
「パパもだよ、さっさとやっちゃって」
口調は妻そっくりだ。
「わかった」
私はパソコンの画面を見ながら、カーソルを動かす。
「あっ、まただ、すごく大きい!」
息子の大声に私は思わず顔をあげた。窓の外は目もくらむようなまぶしさだ。
「よそ見ばっかりしないでって言ってるでしょ」
妻がまた注意する。
「はあい」
そうだ、余計なものは見まい。
この土地に赴任してきたとき、その美しさに目を奪われた。双子のように寄り添って流れる二つの川は、最後に一つになって海に注ぎ込んでいる。この部屋からはちょうど合流するところが見える。川に挟まれた土地は肥沃で、古くから栄えたところだ。人口も集中している。石造りの古い町並みは優雅だ。しかし、私の任務はこの土地を愛でることではない。
「ねえ、パパ、ご飯が終わったらあそこに花火を見に行こうよ」
「ダメだ」
私はきっぱりと言った。
「危ないんだ。ものすごい人だよ。みんな押したり走り回ったり」
「何かゲームをしているの?」
「ゲームじゃないさ」
息子よ、あれは花火でもゲームでもない。ただの終わりのない争いだ。だが、私の仕事はそれについて考えることではない。
「つまんないよ。ここから見てるだけじゃ。音も聞こえないし」
「行くものじゃない。第一ものすごく遠いんだ」
ああ、早く終わらせなければ。
「そんなはずないよ。昼間は海の近くの建物がはっきりきれいに見えるよ」
どうか真っ暗闇のうちに、すべてが終わりますように。朝の美しい光の中で無残な姿がさらされることがないほど、あとかたもなく徹底的にやりつくさなければ。
「ねえ、パパ、この窓開けられないの?」
「そうよ」
妻が口をはさんだ。
「宿題はできたの」
「できたよ。パパは?」
「うん、もう少しだ」
カーソルを動かし、最後のクリックをした。
「あ、パパ、見て、今度もすごい」
息子は窓のそばに駆け寄った。遠い入り江の上空に白い光が何度もひらめき、そこだけ真昼のように見えた。しばらくするとまたあたりは真っ暗に戻った。
「終わりかな」
息子は残念そうに、ガラス窓に額をくっつけている。
「おしまいだ」
私はパソコンの電源を落とした。画面も漆黒の闇に変わった。重労働をしたわけでもないのに、全身に疲労を感じた。
「カーテン、閉めましょうか」
「いや。しばらくそのままにしてくれ」
うなずいた妻は息子を促した。
「さあ、ご飯にしましょう。チキンよ」
「やったあ」
息子はテーブルに駆け寄った。
「いただきまあす」
「待ちなさい。その前にお祈りだろう」
息子はうなずいて両手を組み、目を閉じた。
私と妻は目を合わせ、窓の向こうを見る。暗闇の中、あのあたりにはもう何も動くものはないだろう。
「パパ、お祈りの言葉、早くしてよ」
「そうだな」
目を閉じるとここにも闇が訪れた。祈りのあとに、カーテンを閉めよう。
私は祈る。息子の目には恐ろしいものが映りませんように。そして、どうか、ここだけは、私たちだけはずっと安全で快適でありますように。
私は唱えた。
「我らに罪を犯すものを赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」