阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「楽園」アサマコウ
昼食を終えたあと少しの時間、自分のデスクに戻ってもいいのだが、何かせせこましい感じがする。たった十分でもいいからひとりの時間が欲しい。
喫茶店にでも入ればその時間も持てなくもないが、薄給の身としては毎日はつらいし、時間に追われてコーヒーをすするのももったいない気がしてならない。
そこで編み出したのがトイレの個室。
優雅とは言い難いが、ここがかけがえのない、都会の中でたったひとりになれる楽園。
ここのトイレには3つの個室がある。が、今日は2つが埋まっていて、真ん中のひとつのみが空いていた。迷わずそこへと入り鍵をかけた。
入ったからといって、何をすると決まった訳じゃない。用を足すというのは、ひとつのすることだが、それも済んでしまえばあとはぼーっとするだけ。スマホなんかを眺めていれば時間つぶしになるけれど、それじゃ意味がない。ひとりの時間を有意義に過ごせてるとは言い難い。目をつぶり、瞑想とか何とか難しいことはできないけれど、とにかくひとの目を気にしなくていい時間を過ごす。
しばらくすると、慌ただしく駆け込んでくる足音が近づいてきた。そしてドアを壊しにかかってるのかと思うくらいに激しいノックの嵐。トイレの入り口側から順に、ドンドンと叩いていく。
せっかくのひとりの時間を邪魔されイラっとした。
そのノックは奥の個室から入り口の個室、そしてまた逆と、何度も往復していく。
うるさいからもう出ようかとも思ったが、休み時間はあと少し。放っておこう。
すると何往復目か、ノックの力加減が明らかに弱くなっていく。といっても往復は続いてはいるが。
よく考えてみると俺が最後に入ったのだ。
順番からいって、前か後ろの個室が先に出るべきじゃないかと思う。別に、そう決まったものじゃないけど、まあ普通に考えればそうなるだろう。
ノックの主の足音は弱弱しく、いや正確にいえば、爪先だけしか地に着いてないのが、手に取るように分かる歩き方になっていた。
余程の一大事なんだろう。
ノックの主には悪いが、俺はもう少し自分の時間を満喫したい。そこで考えた。ここは使用中ですよと知らせるために洗浄レバーに手をかけた。
ノックの主よ、前か後ろの個室に行き、苦しみから解き放たれるが良い。
だが前の個室に出る様子が無い。衣服を整えるなり、鍵を開けるなりの音が聞こえてきても良さそうなものが聞こえてこない。そして、後ろの個室も同様。
これにより、ノックの主の奥歯のガタガタ震える音までもが聞こえてくるようになっていた。
そこまで困ってるのなら、俺も空けてやるくらいのやさしさを持ってないわけじゃないんだが、前と後ろの個室の奴らがだんまりを決め込んでるのが腹が立つ。
ノックの主には悪いが、こっちも意地になってくる。前と後ろとチキンレース状態だ。
ノックはもうやんでいた。その代わり、声にならない声を発するようになっていた。
もう間際なんだろう。
けれど考えてみるに、前の個室のほうが後ろの個室より先に入ってたのかもしれない。また逆もあるだろう。そして、どちらか、もしくは俺のところに、一度出入りがあったと考える。そこは個室。いちいち気にしてなければ個室のどこかが空いてるんじゃと考えられなくもない。いやしかし、そうするとノックの連打の説明がつかない……。
しまった。
もしかすると、さっきのアピールが失敗だったかもしれない。俺が出たんじゃないかと勘違いしてるのではないか。
そんなことを考えていると、ノックの主が「あ~~」と情けない声を発する。
到頭だ。限界を超えてしまったのだろう。
異臭が漂い、ダムの決壊の始まり、そして、その場でヘナヘナとへたり込む姿が容易に想像できた。
俺は見もしないノックの主に勝手に共感を覚え、自分を棚に持ち上げて、ちっともやさしさを表さない鼻持ちならない奴らがどんな奴かを見てやろうと思った。便器に足をかけ、前の壁を越えてそっと覗き込んだ。
???
誰もいない。
どういうことだろう。
俺は恐るおそるドアを開け、個室を出た。
もう、そこには異臭はなく、どの個室も空いていて、誰もいない。
俺は背中に寒いものを感じながらトイレを後にした。