阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「違和感」立花ゆずほ
「おかしい……」
仕事から帰って、まずホッと出来るはずの
瞬間。便座に腰を下ろした私の目に、今ここにあるはずのない物が飛び込んできた。
記憶が正しければ、今朝は私の方が先に家を出たはずだ。「先に行くよ」と声を掛けて重いカバンを肩に掛け直した記憶がよみがえる。やはり間違いない。
だとすると、これはやはり、今ここにあってはおかしい。あり得ない。
だって、目の前のペーパーホルダーには、未使用のトイレットペーパーがセットされているのだから。ピタッと端のくっついた、誰も使っていないであろうトイレットペーパー。
これは、こんな所にあるはずのない物なのだ。おかしい。
私はそれをじっと見つめる。
彼がトイレットペーパーを取り替えたなんて、信じられない。いつだって、何度注意したって、使い切ったトイレットペーパーの芯をそのままにしているような人なのだ。使っている途中で足りなくなったとしても、芯はそのまま付けっぱなしにして新しいペーパーを床に置いて使うような面倒くさがり。
自分が使うわけでもないのに新品のペーパーに付け替えるなんて、そんな気の利いた事をする人じゃない。
それは、世界中の誰よりも私が一番よく知っている。違和感しかない。
そうだ。違和感だ。
今朝も小さい違和感は色々あったのだ。短い髪をやたら丁寧にクシでとかしているなとか、ジャケットのホコリをしきりに気にしているなとか。
ああ。それだけじゃない。
「先に行くよ」と言った私に珍しく「気を付けて」なんて言ったのも思い出した。普段ならぶっきらぼうに「ああ」としか返事しないくせに。空耳かと思って忘れてた。
これは十中八九そういう事なのだろう。
青く染まった水が渦を巻いて流れていく。音を立てて吸い込まれていく水を見ながら、私は一人で頷いた。
そうか。そうか。
冷たい水でバシャバシャと手を洗いながら、鏡の中の自分に微笑みかける。目尻にたくさんのシワが出来た、ちょっと疲れた笑顔。私、この頃少し老けたかしら。
「ただいま」
ジャラジャラとキーホルダーのぶつかる音をさせながら入ってくる影。
「おかえり」
私は平静を装って優しく振り返った。
「風呂入ってくる」
ネクタイを緩めながら私の脇を通り過ぎる彼に、私は声を掛ける。
「私に隠し事してない?」
「は?」
彼が眉間にシワを寄せる。
「だから、何か私に言うべき事があるんじゃない?」
「別に何もない」
ため息交じりに言い捨てて風呂へ急ごうとする彼。
問いただしてどうしようという訳でもない。真実を知った所で仕方ないのはわかっている。
でも。
「隠さなくてもいいじゃない」
「だから、何が」
苛立ちを隠そうともしない彼に、私は満面の笑みで続ける。
「だから、彼女が出来たなら母ちゃんにちゃんと教えてよね!」
肩をピクリとさせて、こちらを睨む息子。
「誰に聞いたんだよ」
ばつが悪そうに呟いてそっぽを向く。
ほら、当たり。
「誰にも聞いてないけど、そんなのわかるわよ。十六年間あんたの母ちゃんやってるんだからね!」
ふふ、と思わず笑い声がこぼれる。
「わざわざ言う事じゃねえだろ」
「紹介しろとは言わないけど、ちゃんと大切にしなさいね。それだけは約束して」
「言われなくてもわかってるよ」
面倒くさそうに言った後、耳まで真っ赤にしてボソリと呟いた。
「お袋こそ、俺の事より自分の事をもっと大切にしろよ」
こんな違和感なら、大歓迎だ。