阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「思い出のクソ野郎」大河増駆
二十年前のことである。
三十歳の私はコンビニでバイトをしていた。一日十時間近く働いていたが年収は三百万円程度で生きていくだけで精一杯という感じ、結婚など夢のまた夢であった。
十一時にアルバイトを終え電車に乗り最寄り駅に向かう。車両は空席も多くどんよりとした疲れをまとった中年男性たちが居眠りをしている。
駅に着くと、尿意をもよおしトイレに入った。ムワンとした濃厚な臭いが立ち込めている。私は軽い蓄膿症なのだが思わず鼻をつまみたくなるような腐敗臭だ。その臭いの元はドアが開いている大便用トイレにあるようだ。近づき中を覗き込むと、和式トイレに巨大な大便が横たわっている。テレビで観たことがあるタイの横たわる仏像のように堂々としている。つぶれたフランスパン並みの大きさだ。
動物が入ってきてやったのか。しかし、こんなにきっちりと便器内におさめられるわけがない。周辺に小便が飛び散った跡もない。
―自分がやったと思われたらどうしようー
そんな思いがせり上がり、あわてて水洗のレバーを下げる。水は大便の横を申し訳なさそうに通り過ぎるだけで、クソはビクともしない。その姿がふてぶてしく思え、今度は足でレバーを押し下げた。水はしぶきをあげながら体当たりしていくのだが、小学生たちが相撲の力士に群がるように微動だにしない。
私は振り返り、誰もいないことを確認してトイレから抜け出し、改札を後にする。駅員が不審に思い追いかけてこないかと心配になり久しぶりに走り出した。十分後、アパートが見え始めたころ、やっと自分が小便をしていなかったことを思い出した。
その日から私の鼻の奥にあの匂いがこびりついた。もしや腹毛に染みついているのではないか、わざわざ鼻毛カッターを購入し処理した。少しはましになるが、日に数度あの臭いが立ち上がってくる。
自分の体の中に臭いが住み着いたような気がして、週三回だったシャワーを毎日浴びるようになった。
あのとき着ていた服は捨てて、久しぶりに服を購入し、こまめに洗濯するようになった。
身なりなど構わなかったのに、人の視線が気になり始めたのだ。
服だけでなく香水も買うようになると、今の安月給では厳しく生活もままならない。将来のことなど考えたこともなかったのだが、このままでやっていけるのかと不安になり始めた。なにかいい方法はないものかと思案した。
学生時代から褒められることは少なかったが、中学校の技術科の授業でラジオ制作のとき、はんだづけをしていると先生から、
「ずいぶん器用だなぁ」
と褒められたことがある。
そのことを思い出し、ハローワークに行き相談すると担当の年配男性が、
「それじゃあ職業訓練校に入って溶接の資格をとってはどうですか」
と勧めてくれた。中学生に混ざって一年間通いつめた。卒業時にはアーク溶接など八つの資格が取れた。仕事をやり始めると完成度が高いといわれ仕事も選べるようになってきた。
人生が変わり始めた。
生活にゆとりが生まれ、勤めていた工場のえくぼが可愛い事務員の女の子に目がゆくようになった。給料の明細書が入っていた封筒を返しにいくとき、できるだけ彼女に声をかけるようにした。今まで女の子と話したことなどなかったので、脇汗や額にも脂汗が浮かぶ。そんな大切なときにあの臭いがよみがえってくるのだ。きっと彼女は臭いと思っているに違いない。それならば先手を打ってやろう、ダメもとだ。
「あのー、ボクは臭いですか」
「え?」
いきなり、話題をふられた彼女は戸惑っている。
「いやー、ボクは溶接の仕事をしているから独特の臭いがするかと心配になったのです」「全然……、大丈夫ですよ」
彼女の左のえくぼが一層深くなり優しくこたえてくれた。
少し大胆な気持ちになって、
「今度、映画に行きませんか」
そう誘いかけると、彼女は少しうつむきはにかんで首を縦にふってくれた。
それから私と彼女のつきあいが始まり、二年間の交際の後、結婚したのが三十三歳のときだ。
あれから二十年、幸せの中でもふとあの臭いが立ち上がってくることがある。以前は不愉快なものでしかなかったのだが、あのときトイレに入っていなければ思うと複雑な気持ちになってくるのである。