阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「トイレの地縛霊」吉岡幸一
気になるトイレがあった。俺は毎朝、通勤途中の公園にあるトイレを利用するのだが、そのトイレには(このトイレは使用をお勧めしません)と、書かれた紙の貼られた個室が一部屋あった。
(故障中)や(使用禁止)と書かれてあるだけなら、そんなに気にすることもないのだろうが、お勧めしませんと書かれてあるものだから、その理由が気になって仕方がなかった。
理由を知るために混んでいるトイレのなかで知らない人に聞くのもためらわれるので、長い間ほっておいたのだが、ある朝トイレを出たとき公園管理人と書かれた名札をつけた老人が前を通りかかったので、俺はあわてて呼び止めて聞いてみた。
「トイレにお勧めしませんという紙が貼ってあるのですが、どういう意味なんですか。ほかのトイレより水の出が悪いとかですか」
「いや、そういうわけでもないのですが」
管理人は歯にものが詰まったような言いかたをした。
「使ってよいのなら、ためしに一度使ってみたいのですが」
「それは、ちょっとお勧めはしませんけど、どうしても使用されたいというのならご自由になされてください。ただし、こちらとしては責任を持てませんので」
管理人はこれ以上聞かれることを恐れるかのように足早に去っていった。
いぶかしく思いながらも、使ってもよいのなら使ってみようと俺はさっそく張り紙のあるトイレにむかった。
ドアを開け、中をのぞいてみたが他のトイレと変わりはなかった。壊れているような箇所も見つけられず、汚れているわけでもなかった。せっかくだからと用を済ませ水を流すと、突然足のない男が目の前にあらわれた。
「助けてください。成仏できなくて」
男は言うまでもなく幽霊なのだが、腰が低かったせいかまったく怖くなかった。
なるほど幽霊がでるからこのトイレを使うことをお勧めしないというわけか。理由さえわかればもうこのトイレには用はない。俺は幽霊の体をすり抜けて外に出ようとした。
「待ってください。どうか話だけでも」
すがりつくように言うものだから、かわいそうになって俺は留まった。少しくらいなら話を聞いても仕事に遅れないだろう。
「僕には結婚を考えている彼女がいました。それは幸せな毎日を過ごしていました。それがある日、お腹を壊してしまい、デートの最中に痛くなってこのトイレに駆け込んだのです。ええ、この個室です。運悪くズボンのベルトが壊れてしまったのです。どうしてもベルトのバックルがしまったままで外れなかったのです。かなり時間はかかりましたが、どうにか外すことができました。やっとの思いで用を済ませてトイレから出ると、もうそこには彼女はいなかったのです。待ちくたびれて帰ってしまったのです。彼女は待たされることが大嫌いなんです。僕はまだ近くにいるかもしれないと思って、必死に追いかけました。その途中で車にはねられてこうなってしまいました。ベルトさえ壊れてしまわなければ、ふられることもなく、車にはねられることもなかった。それを思うと成仏しきれない。だからその原因となったトイレで地縛霊になってしまいました。どうか、あなたのお力で僕を救っていただけませんか」
なるほど、そういう理由で……と思ったが、俺にはどうすることもできそうになかった。ふった彼女ならこの幽霊を救うことができるかもしれないが、関係のない俺には救う手だてもなかった。
「地縛霊だからここから出ることができません。代わりに僕の気持ちを彼女に伝えてくれませんか。待たせたことを謝って、どうしてトイレから出られなかったのか説明をしてほしい。そして彼女に許してほしいのです」
「わかりましたよ。彼女さんに伝えますから、ここから出てもいいですか」
地縛霊となった幽霊は嬉しそうにうなずくと体を横向きにしてドアの前をあけた。
彼女の特徴や連絡先を尋ねてから、俺はトイレの外にでた。トイレを利用する度にこんな話を聞かされたらたまらない。幽霊が成仏すればこのトイレも使いやすくなる。さっそく彼女へ電話でもしてあげよう。そう思っていると、トイレの建物の裏で花を供えている女がいた。幽霊の話した特徴と同じだ。それにちょうど幽霊がいる個室の真後ろだった。
「おおい、そとに愛しの彼女がいるぞ」
俺は壁をたたくと大声で怒鳴った。中から彼女の名前を呼ぶ幽霊の声がきこえてくる。女は驚いたように顔をあげた。
さて、あとは当人同士に任せるとして、明日からはあの個室を利用することにしよう。張り紙を貼ったままにしていれば俺専用のトイレになる。
俺はにやけながらトイレから離れていった。