阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「水に流す」堀越碧子
僕はトイレの蓋を閉め、その上にあぐらをかいて目を閉じた。深呼吸を繰り返し、精神を統一する。
僕は学校へ行けと言われ、母親とケンカになったのだった。そして、断固拒否してこのトイレに入り鍵を掛けた。母親はドアを幾度もノックして、「開けなさい」と訴えた。だが、僕はだんまりを決め込んだ。「まったく」そう言って母親はトイレの前から去っていった。
時計がないのでわからないが、おそらく一時間ほどが経過。僕は腹が空いてきた。外に出ようかと思ったが、それも馬鹿らしく、母親がもう一度「開けなさい」と言ったら出てやろうと決めた。だが、母親は一向にやって来ない。
空腹が限界を迎えた。仕方なくトイレから出ようと、ドアノブに手を掛ける。しかし、待て。やはり、ここで腹を空かせて外に出たら負けではないか。母親の思うツボだ。この状況を狙っていたに違いない。食事をしたいなら謝罪をしろと脅迫され、学校へ行くことを念書でも書いて約束させられるのだ。負けてたまるか。
幸いトイレは水飲み放題、排泄だってできる。暮らそうと思えば暮らせる環境だ。僕は空腹を凌ぐために、恐る恐るトイレの水を飲んだ。意外といける。
だが、おかしい。このトイレは一軒家の二階にあり、母親の寝室も二階にあるのだ。寝室に入るには、トイレの前を通らなければならない。
トイレには窓もないので、昼夜がわからない。が、この腹の空き具合、少なくとも僕が立てこもってから一日は経過している。それにも関わらず一切の物音がしないのは不自然だ。腹は空いたが眠くもなってきた。僕は水をたらふく飲んで壁により掛かり、睡眠をとることにした。
目が覚めた。相変わらず辺りは妙に静かだ。母親はそこまで徹底して僕に罪を認めさせたいのか。これだけトイレに息子を籠もらせておくのは、さすがに親失格ではないか。「お腹空いていないの?」「狭いところで大丈夫?」とか心配してもいいだろう。いい加減。僕は怒りが沸々とこみ上げてくる。
壁を試しに蹴ってみる。鈍い音が響くだけでそれ以外の音は何も聞こえない。いつもは長くとも十分で出てしまうから気付かなかったが、もしかしてこのトイレは防音設備が凄まじかったりするのだろうか。もう一度壁を蹴ってみる。周囲からの反応は何もない。
僕は空腹だが、僕の中にいる僕が昨日以前に食した者たちが外に出たいと訴え始めた。いや、待てよ。ここにまだ何時間いるかもわからない。奴らを外に出したら、こんな個室で臭いに耐えられるだろうか。でも、腹が痛くなってきた。仕方がないので、僕は奴らを排泄し、運良くトイレに付いていた「パワー脱臭ボタン」を押した。これで少しはマシか。換気扇も回したいところだが、生憎換気扇のスイッチは外にある。「クソッ。クソだけにな」僕はつまらない自分の冗談に自分で笑うような人間に成り下がっていた。そしてやはり臭い。苦行だ。こうして皆大人になっていくのだろうな。
だが、やはりおかしくないか。母親はどこへ行った。それに父親だって今週は出張の予定がなかったはずだ。もしかして僕がトイレに籠もっている間に、人類は滅亡したのかもしれない。このトイレは凄まじい防音設備があることからわかるように、実は核シェルターになっていたのだ。
この家は父親と母親がこだわり抜いて建てた夢のマイホーム。両親は考えたに違いない。今は小さく可愛い息子もいずれは反抗期を迎える。きっと息子は怒り狂ってトイレに籠もるだろう。その時、世界で危機が起きたら、どうやって息子を救うか。そして考えついたのが、トイレにシェルター機能を装備することだったのだ。僕は両親の深い愛に目頭が熱くなった。「でも、ドジだな。乾パンくらいの食料は用意しといてくれよ」涙が止まらなかった。
すると階下から、母親の声が聞こえた。
「ごはんよー」
僕は目を見開いた。見えない大きな力が僕にチャンスを与えてくれた。勢いよくドアを開けて外に飛び出し、階段を駆け下りる。
居間へ行くと、母親がいた。そして、僕を見て微笑んだ。
「もうっ!小一時間もトイレに籠もって何してるのよ」
どうやら、あのトイレの内外では時間の流れる速度が違うらしい。
「まずごはん食べて、ちゃんと学校のこと話しましょう」
僕の目から再び涙がこぼれ落ちた。