阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「花子とゾンビと嫁姑問題についての考察」唄辺マキ
雪隠詰め。まさにこのことでしょう。
外には、ゾンビが居るのです。
「ヴアーーーーううあああををを」
何体も、何十体も。
そして僕が座っている便座脇には「ねえ」、
白眼がうす青い、その少女がしゃがんでいるのです。すぐ足もとに。
「ウチといっしょに、ここに居てくれる?」
彼女はハナコだと、名乗りました。
「居てくれるんでしょ? ずうっとずっと」
返事の代わりに、僕は生唾を飲みこみます。
今更、後のまつりではありました。
ウチねえ、おかあちゃんから逃げてんの、おかあちゃんはね、いつもすごくやさしくて、ウチと弟と妹とをいつもじゅんばんに頭をなぜてくれて「みんなかわいい」て言ってくれて、玉子焼きも作ってくれて、ウチひとりでいる時には、ふたりには内緒だよ、ってあめ玉くれて。
それがね、急に、おとうちゃんのせいで目玉がひっくり返って、ずっと高笑いしてね。
オマエも生かしておけないよ、って急に追いかけてきたの、だから逃げたの。
弟も妹もおいてけぼりにして、だって。
ふたりとももう、息をしていなかったから。
うんうん、そうなんだ、とか適当な相槌を返しながら、僕はそれまでは外の気配に全神経の九割九分まで集中させておりました。
なんせ、外の低いうなり声は確かに、徐々に近づいてきていたのです。もちろん、俄かとは言え掃除用具や脚立などでバリケードも築いていましたので、気配がしたらすぐにこの個室から飛び出して、入口近くの用具庫に飛び込み奥の小さなドアをけり開け、壁裏伝いに逃げる算段でした。
しかし、『息をしていなかった』のところで急に何かぞわりと二の腕に寒気をおぼえ、僕は今一度、その少女に目を落としたのです。
目が合ったしゅんかん、少女はにかっ、と大きく笑いました。うす青い白目の中に先ほどまではつぶらに思えた瞳がぐうんと縮み、溺れそうに細かく揺れ動いたかと思うと、完全な白目となりました。と同時に、真っ赤な口が真横に裂け、こんな数は人間ではあり得ない、という見事な歯がずらりと並んでみえたのです。
やはり、この子はかの有名な『花子さん』なのでしょう。今まであえて気づかないフリをしていたのに。
彼女はきしむ声でこう問いかけてきました。
「ねえ、けっこんしてくれる?」
しかし僕はそこではっ、とわずかに我にか
えりました。
花子さんの怪談とは、どんな展開だったろう?うん、と返事すると殺されるのか、それともううん、と返事をすると殺されるのか……しかし結婚を求められるという展開が、あったのだろうか?
そのうちに、ゾンビどものうめきは更に大きくなってきました。
まずい。僕は便座から立ち上がります。
ゾンビに捕まった時の展開は何となく想像がつきます。B級C級の映画やドラマでさんざん見ていますから。
ゾンビに生きながら喰われて血をドバドハ流しはらわたをひきずって絶叫しながら最期を迎えるか、あまり喰われずとも激痛とともに全身に毒がまわり、自らもゾンビとなって更なる犠牲者を探しまわることになるか……
それは絶対に嫌だ。しかし……。
「けっこんしてくれる?そしてここでずっといっしょに、くらそうね」
にかり、と笑うぬれぬれとした唇はやはり、耐えがたいものがあります。
「ちょっと待って、花子」
僕は可能な限り落ちついた声でゆっくりとドアのかんぬきに手をかけました。もちろん、すでに呼び捨てで。
「ふたりで住むにはちょっと、手狭じゃあないか?今から良い物件を見つけてくるから」
花子の返事も待たずに、僕は個室から飛び出しました。便所の入口、わずかなスリット窓にはすでにゾンビどもの黒い影がひしめいています。そのうちどすんどすんと音がして、扉がかすかにたわんだ気が。
えいやっ、と僕は入口脇の倉庫に飛び込み勢いで奥の扉を蹴り開け、無理やり中に身を滑り込ませました。
配管が入り組んだ壁裏、ひやりとした暗がりに、長い黒髪で顔を覆った女がひっそり、立って、待ち構えていました……僕を。
僕はつい、こう声に出しました。
「……花子さんのお母さまですか?」
影は答えません。僕は仕方なくそのまま深々とおじぎをしながら叫びました。
「……花子さんを僕にくださいっ!」
四面楚歌、ということばがふと脳裏をよぎった日のことでした。