阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ああ、修羅場」冨安妙子
修羅場である。
あるマンションの一室で一人の男が三人の女に取り囲まれていた。女たちは口々に誰が本命なのかと、詰め寄っていた。そして、本命以外の女はきっぱり手を引くべきだと身勝手な主張を繰り広げている。
その男を巡る醜い言い争いは、おおよそ一時間余りも続いたが、一向にらちがあく気配はない。男には逃げ場はないが、かといって慌てる様子もない。落ち着きはらっている。男の方は、初めから遊びの付き合いだと一貫していってきている。ふてぶてしい態度は、見ているこちらがハラハラとさせられる。
申し遅れたが、私はこの男に飼われているマルチーズのチャコである。ちなみに私もメスだ。私は、そこに立っている細身で髪の長い弁護士事務所の事務員である芳子に買われた。この男がペットショップで芳子にねだったのだ。生れて二年、人間でいえば女ざかり、毛は白くフワフワしている。私に人間の言葉が話せたならば、彼女たちにいいたい。
「こんな男は、止めなさい」
男は大学二年生だが学校にもほとんど行っていない。アルバイトをするわけでもなく遊んでばかりいる、いわゆるヒモだ。優柔不断な性格で、来る者拒まずといった姿勢が女の出入りを激しくさせている。良い所といえば顔と下半身だけだ。男が私を抱っこすると、胸元から香しい匂いがする。フェロモンというものだ。女たちは、知らずにその香りに魅かれているのかもしれない。あの柔らかく大きな手で撫でられると夢心地になる。
「はっきりしてよ、浩介。誰が本命なのよ」
と、芳子がイライラしながらいった。
「だから、俺は彼女を作らない主義なんだからさ。みんな俺の大事な友達だって」
「友達と寝るわけ?」
「そういう友達もいるでしょう?」
芳子は二十七歳になる。そろそろ結婚を真剣に考える年齢だ。
「もういいわ。私は手を引く。あなたたちもこんな将来性のない男とは早く手を切った方が賢いわよ。まあ、どうでもいいけれど。浩介、二年間、ありがとう。じゃあね」
芳子は浩介の頬をピシャリと叩くと、手のひらをヒラヒラと振ってアパートを出て行った。私は心の中で「カムバーク、芳子」と叫んでいたが、実際にはキャンキャンと吠え立てただけで、疎ましがられただけだった。私は芳子が特に好きだというわけではないが、私に一番高いおやつをくれるのは芳子だったし、浩介が飼い主では今後路頭に迷いかねない。私も一緒に連れて行ってほしい……。
残されたのは、ナースの美保と同じ大学生の雛子だった。美保は小児科勤務の二十五歳だ。美保は母子家庭で育ったせいか、とても優しい。けれど、美保は仕事のストレスからなのか、布団の中では狼のような咆哮を上げ、浩介も私も呆れているのだった。
普段は大人しい美保が、
「ねえ、浩介君、本当の気持ちを聞かせてほしい。私は浩介君と本気で付き合ってきたと思っていたから、他の女の人と付き合ってほしくない。私だけを見てほしい」
「俺は誰のものにもなりたくないから。自由でいたい。それが不満なら別れるしかない」
どうして、浩介は身も蓋もない言い方しかできないのだろう。美保は何を思ったのか台所に行くと包丁を取り出した。私はキャンキャン鳴いて、浩介に危険を知らせる。こんな奴でも飼い主だ。死なせるわけにはいかない。
けれど美保は浩介の前に立つと手にした包丁を浩介に向けるのではなく、刃先を自分の喉に向けた。手元はブルブルと震えている。
「駄目だよ、美保ちゃん。人の命に携わる仕事をしている人が、そんなことをしては」と、叫ぶ代わりにキャンキャンと鳴く。
「やるなら、よそでやってくれないか?後始末が大変だからさ」
浩介の鬼畜っ。
美保は包丁を床に落とす。カシャンと大きな音が響いた。私たちはしばらく沈黙を見守る。緊張の糸が解けたのか、ワッと美保は泣き出し、走って出て行った。私は女の敵である浩介に一噛みしてやりたくなった。
最後に残ったのは、雛子だった。雛子は始終おどおどしていて、浩介に詰問している間も一応参加はしているのだが、その間ずっと黙っていた。
「腹減ったな、何か食いに行くか?」
雛子は黙って頷く。案外、こういうタイプが最後まで浩介の傍にいるのかもしれない。
雛子は鞄を手に取ると、浩介について部屋を後にした。
留守番を任された私だけが、殺伐とした空気の残骸を味わっている。私も連れ出してほしかったと、心から思う。
そして、これからも浩介に飼われている限り、何度もこんなくだらない修羅場を目の当たりにするのだろうと思う。