阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「夫の恋人」一色類
「今日、そっちに帰ってもいいかな」
よく知っている、それなのにもう遠いと思ってしまう声が、スマートフォンを通して耳に届く。声の主は夫だ。何カ月も前に家を出て行ったきり一度も連絡をしてこなかった夫。恋人のところへ行った夫。おそらく今もその恋人と暮らしている。
恋人? 世間ではそのような存在を愛人と呼ぶのかもしれない。でも、夫がこう言ったから。「恋人ができた」と。
「俺は隠れてこそこそは嫌なんで、はっきりと言っておく。でも、お前が妻であることに変わりはない。お前は妻で、彼女は恋人だ。だから、妻であるお前のところに俺は毎日帰る。約束する。お前は妻なんだから、堂々としていればいい」
夫は中学生の男の子のように頬を紅潮させていた。私は黙って夫の顔を見ていた。
それはありがとう、と私が言うとでも思ったのだろうか。得意げな夫に、私は堂々と、それならば出て行ってくれ、と宣言した。「なぜ?」と夫は言った。「なぜ」と私は夫の言葉をなぞった。馬鹿じゃないの、私はあんたの母親じゃないのよ、と心の中で毒づいた瞬間、私は息子をよその女に持って行かれる母親の気持ちがわかったような気がした。よその女と外であれやこれやと楽しんできた息子が「ただいまぁ」と帰って来る。待ちわびた息子のご帰還にほっとする。「おかえりぃ」と笑顔で迎えるものの、心の底から笑顔にはなれない。そんな役回りになれと、あの日夫は私に言ったのだ。
「ねぇ、今日帰っていいよね?」
私が返事をしないので、夫は不安そうに語尾を弱めた。私ははっと我に返った。そして、「帰って来ない方がいい」と言った。
「今、マンションの前で工事をしていて、ものすごくうるさいのよ」
私はスマートフォンを窓の外に向けた。とんかんとんかん、ががががー、と絶え間ない。
「ね、聞こえるでしょ? マンションの前の三階建ての大きな家、あれを壊して賃貸マンションに建てかえるらしくて、連日朝からずっと、とにかくすごい音なの。私も困ってるのよ」
私は在宅で翻訳の仕事をしている。
「そんなわけで、帰って来ても落ち着かないと思うから、やめた方がいい」
「でも、夜は静かなんだろう? どうせ昼間は会社に行ってるから問題ないよ。二、三日でいいから」
ねえ、二、三日でいいんだよね? と夫が後ろにいる誰かにたずねている。誰かが誰なのかは考えるまでもない。夫の恋人だ。私は思わず眉をひそめる。しばらくして、「もしもし」と女の声が聞こえた。
「すみませんが、二、三日でいいんで」
名前も告げず、形式的な挨拶もなく、恋人と思われる女は言った。随分と不躾な対応なのに、そう感じさせないたおやかさが女の声にはあった。
「一体どういうことなんでしょう?」
私は妻として堂々とたずねた。女は私の質問には答えない。仕方なく私から話しかける。
「あの、さっき夫にも言ったのですが、今、ウチのマンションの前で大がかりな工事をしておりまして、とにかくやかましいんです。なので、帰って来るのはおすすめできません」
「でも、工事って、夜はしないですよね? 夜が静かなら、何の問題もありません」
「なので、二、三日、そちらで寝させてあげて下さい」
何という図々しさ。これが妻に対する物言いか? と呆れたけれど、やはり嫌な感じはしない。どんな女なのか、会ってみたい。
「あの、一体どいういうことなんですか?」
私はもう一度たずねてみた。理由ぐらいは教えてもらわないと。
「恋人が来るんです」
「は?」
「遠くに住んでいる恋人が来るんです。二、三日」
「あ、あなたの恋人って、私の夫、ではないのですか?」
「ご主人は私の恋人です。まちがいありません。でも、恋人は一人だけって決まっているわけではないですよね?」
「つまり、夫以外の恋人が会いに来るから、夫がそこにいては不都合だから、その間夫を預かってほしいと?」
「そういうことです」
工事の音は続いているはずなのに、私は妙な静けさの中に取り残されていた。この女が相手では修羅場になりようもない。
「二、三日と言われましても。二日なんですか? 三日なんですか? そこははっきりしていただかないと」
少し考えるような沈黙があって、「三日」と女は簡潔に答えた。