阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「真夏の轍」真夜中
中学生の頃、放課後に自宅で宿題をしながら祖母と話すことが私の日課だった。七五歳を越える祖母はだんだんと物忘れをする頻度が多くなってきていたけれど、祖母が語る昔話を聞くのが好きだった。その日は夏休み前の期末テストがちょうど終わった日で、大きな入道雲が空を覆い、ワーンワーンという蝉の鳴声が響いていた。いつものように私は祖母と他愛もない話をしており、何の気なしにこんなことを聞いたのだ。
「おばあちゃんのこれまでの人生の中で、一番の大事件って何だった?」
「そうねえ」
祖母はそう呟くと、窓の外の空をちらりと見て、静かに話を始めた。
「おばあちゃんとおじいちゃんがまだ結婚する前、おばあちゃんには好きな人がいたの。近所に住んでいたお兄さんだったのだけど、時々勉強とかも教えてもらってね。おばあちゃんは、その人のことをとても尊敬してた。でも、恥ずかしくて好きと伝えることがどうしてもできなくて。そんな時、おばあちゃんとおじいちゃんの結婚がお見合いで決まってね。おじいちゃんは私のことをとても好きになってくれて、私も『これであの人のことを忘れることができるかも』と思ったわ。
でも、あることが起きてね。今日みたいに蒸し暑かった夏の日に、私が買い物に行こうと玄関を出たら、その人が家の前に立っていたの。突然のことだったから、私はびっくりしてね。その人は暫く黙っていたと思ったら、真っ赤な顔で『カヨさん、僕と結婚してください!』と大きな声で言ったの。私はとっても驚いてしまって、何も言えなかった。そうしたら、その声を聞きつけたのか、たまたま家に遊びに来ていたおじいちゃんが出てきてね。『おまえ、何を言うとる!』と叫んだと思ったら、玄関に飾ってあった日本刀をサッと抜いて、その人に切りつけたの。
全てがあっという間だった。気が付くと、血の跡がポタポタと道に落ちていて、あの人はどこかに消えてしまってた。彼の真っ赤な血が、太陽の光に当たってキラキラと光っていたのを今でもよく覚えてる。そのことがあって、初めて私とあの人が両想いだったとわかったの。それからおじいちゃんに内緒でその人の行方を探したのだけど、どうしても見つからなかった。その後しばらくして、その人は目にケガをして、引っ越したらしいということをどこからか聞いたわ。私はその人に一言『ごめんなさい』と言いたかったのだけど、叶わなかった。その後、おじいちゃんと結婚して幸せな家庭を築いたけれど、毎年夏になると、どうしてもこのことを思い出して悲しくなるの」
祖母は、淡々とその話を私に語った。いつも穏やかでニコニコとしていた祖母にそんな過去があったとは俄かには信じられなかった。三年前に亡くなった祖父も物静かな人で、そんな荒々しいことをするようには見えなかったし、本人からもその件については何も聞いたことがなかった。
私は驚きのあまり「もしかして、おばあちゃんは何かの映画のシーンと、自分の過去との区別がつかなくなっているのかも」と思い、祖母の話を深く受け止めることをしなかった。いま思うと、中学生の私には大人すぎる話だったのかもしれない。ともかくその話は祖母とはそれっきりになり、私は両親にもその内容を伝えることはなかった。
その祖母の衝撃の告白からちょうど一年くらい経った頃だろうか、元気だった祖母は夏風邪をこじらせてしまい、あっけなく逝ってしまった。私は祖母が亡くなったことに実感が持てず、不思議と涙が出ることはなかった。
葬儀には、祖母のことを慕っていた近所の人がたくさん来てくれた。殆どが知っている人ばかりだったが、その中のひとりの白髪の老人が私の目に留まった。その男性の左目に大きな傷があったからだ。
「お母さん、あの人知ってる?」
私が横に座っていた母に小声でそう尋ねると「さあ、誰かしら。おばあちゃんの昔の知り合いかもしれないね」と母は答えた。
私はその老人から目を離すことができなかった。喪服を着たその人からは、優しく、気丈な様子がどことなく伺えた。彼は祖母の遺影の前でじっと手を合わせ、しばらくの間佇んでいた。すると、彼の閉じた右目から、静かに涙が零れ落ちたのが見えた。
その時だった。突然、私の胸の奥からワッと熱いものが湧き出して、涙がどっと溢れてきた。鼻の奥がツーンとして、息が苦しくなった。急に私がわんわん泣き出したものだから、周りの人がぎょっとしたのがわかった。私は悲しかったのだろうか、嬉しかったのだろうか。自分でもよくわからなかった。でも、天国で祖母が喜んでいるに違いないことは、しっかりとわかった。涙で霞む視界の中で、祖母の笑顔がゆっくりと揺れていた。