阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「小修羅場」下牧美沙
「おかえりなさい」
晴美は背筋をピインと伸ばし、正座をして、遥斗が来るのを待っていた。遥斗が来ても、晴美はそちらに顔を向けることなく、壁の一点を見つめたままであった。
「ただいま」
晴美の張りつめた声とは対照的に、ずいぶんと呑気な、間延びした声であった。
「今、何時だと思う?」
「何時って、二時だけど」
遥斗は壁にかかっている時計を見上げ、時間を告げた。晴美の声に非難がこもっていることに遥斗はまだ気がついていない。
「こんな時間まで、何をしてたの」
晴美はじっとりと遥斗を睨んだ。視線を受けて、遥斗は一瞬ひるんだが、すぐに反論した。
「仕事に決まっているだろ。こっちはお前たちのために、夜遅くまで働いてるっていうのに」
「あら、こんな時間までお仕事だったの?」
「あぁ、どうしてもやらなくちゃいけない仕事でね」
「でも、あなた以前に、うちの会社は残業も少ないし、ブラックとは無縁だな、なんて言ってたじゃない」
遥斗はうんざりだとでもいうように、大きくため息をついた。
「そんなこと言ったかな。それに、どうしても今日中にしなきゃいけない仕事があったんだよ。しょうがないだろ」
「あら、でも十時に会社に連絡したら、若い女性の方があなたはもう帰りましたって言ったのよ」
晴美の目は徐々に冴え冴えとしてきて、その奥には鋭い光が宿っている。
「それは……。そうだ、飲みに行ったんだ。上司に誘われてさ。仕事づきあいなんだよ。しょうがないだろ?」
遥斗の口からは、次から次へと言葉が出てくる。そんな遥斗の様子を晴美はひややかな目で眺めている。
「あなた飲んでくるといつもお酒の匂いがするのに、今日はちっともしないわね」
「今日はそんなに飲まなかったんだ」
「そのかわりに甘い匂いがするわね。その匂いはどこでつけてきたの?」
「お前の気のせいだろ。もういいかげんにしてくれよ。こっちは一日中仕事をして、疲れてるんだ」
「まだ、話は終わってないわよ」
その場を離れようとする遥斗の腕を晴美はぐいとつかんだ。
「それにね、この前あなた携帯見たらね。ミキっていう女から連絡が来てたのよ……」
「勝手に見たのか」
「あら、否定はしないのね」
「一方的に付きまとわれているんだ。こっちのことも考えないで。ほんと、あの女には迷惑してるんだ。あの女はストーカーなんだ。俺はお前を裏切ったりしていない。お願いだから、信じてくれ」
今にも泣き出しそうな表情で遥斗は懇願した。依然として、晴美はひややかな目で遥斗を見ていた。目の奥の光は一層鋭さを増していた。
「へぇ。それじゃあ、私が見たあのメールは何だったのかしら。俺も楽しかったよ。愛して……」
「晴美、遥斗、何やってるの」
突然、悲鳴に近い声が上がった。
ドア前に母親が立っていた。足元には買い物袋が落ちていて、床には袋からとび出た野菜や果物が散乱していた。
「なにって、ふうふごっこだよ。たのしいよね、はると」
晴美が満面の笑みを向けると、遥斗はこくりと頷いた。
「うん。すっごくたのしい」
「今すぐに、そんな遊びは止めなさい。そして、二度とするんじゃありません。そう、もう二度と……」
「ママ、おなかすいたー。きょうのおやつなに?」
晴美は目を輝かせながら母親を見上げる。
「ママ、どうしたの?」
ドアの前で立ち尽くしたままの母親を晴美は揺さぶった。遥斗も心配そうに母親のもとへと駆け寄ってくる。
「もう二度としないって約束したのに。もう二度としないって、もう二度と……」
母親は子どもではなく、壁の一点を見つめながら、ぶつぶつと呟いていた。