阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「初仕事」朝霧おと
スーツは紺色にした。身なりが第一だと先輩から教わった僕の初めてのスーツだ。白いシャツにストライプのネクタイで身を整え、中古のブリーフケースを手に目的地へ向かった。
今日が初めての仕事となる。大きな屋敷が建ち並ぶ閑静な住宅地の中、片っ端からインターホンを鳴らした。
「どちらさま?」
最初の一言が高圧的な「どちらさま」だ。金持ちマダムのさげすむ言い草に一瞬ひるみそうになる。
「別荘の販売でございます」
「いりません」
にべもないがホッとした。興味をもたれてドアを開けられては困るからだ。別荘の販売より月の土地か、あるいは宇宙旅行の勧誘くらいのほうがいいのかもしれない。
そう考えながら回ること数軒、やっと留守宅に当たった。前面は広い庭になっていて簡単に中に入ることができた。玄関のドアはかぎがかかっていたが想定内なのであわてない。建物に沿って歩き、窓という窓を順番に確かめる。やはりどこもしっかりとかぎがかかっており、僕は少しだけあせり始めた。
そんなとき先輩の声がよぎった。
「いいか、こそこそするな。堂々としていれば見つかってもなんとでもごまかせるからな」
さっきまでコソドロのようだった僕の背筋がシャンとなる。家の裏に回ると全開の窓が目に入った。歓喜の声をあげそうになるのを抑え「よっしゃ」とガッツポーズをした。
そこは風呂場の窓だった。換気のために開けておいたのだろう。ということは、ここの住民はすぐに戻ってくるということだ。
――ちょっとだけの外出だし、いちいちかぎをかけるのはめんどくさい。大丈夫だろう。
そんな住人の声が聞こえてくるようだ。
僕は素早く窓の枠に足をかけ風呂場の中に入った。
風呂場で靴をぬぎ「おじゃましまあす」と小さく声をかけながらリビングに向かった。さすがだ。やはり金持ちの家はカーテンからじゅうたんからソファから飾りだなからすべてが高級品でド庶民の我々とは違う。これなら現金も相当あるのではないだろうか。期待は高まるばかりだ。
またもや先輩の声がよぎった。
「いいか、狙うのは現金のみだ。どんなに高価なものでも現物はやめろ。足がつく」
宝石のひとつもほしいところだが、僕は先輩の教えを守り、現金だけを狙うつもりでいた。
キッチンに入り、食器棚の引き出しを開ける。収穫は百二十円、小さくても金は金だ。和室にあるたんすの小引き出しからは一万円札が二枚出てきた。僕はだんだん大胆になり、軽い足取りで二階へ上がった。
一番手前のドアを開ける。息子の部屋なのか、学習机と本棚とベッドがありギターケースが壁に立てかけてあった。
机の一番下の引き出しに古びた缶の箱を見つけたときにピンときた。
ここだ……。というのも、僕もその昔、親からもらった小遣いを缶の中に入れていたからだ。どうせ小銭程度だろうと、あまり期待せずにふたを開けると、大量のポチ袋や祝儀袋が出てきて驚いた。しかも袋の中には真新しい千円札や一万円札がきちんと入ったままだ。十万円はくだらない。
逸る気持ちで袋から札を抜いていたとき、ふと僕の手が止まった。『純一へ おばあちゃんより』と、どの袋にも書かれていたのだ。お年玉、誕生日祝、卒業祝、入学祝、合格祝、節目節目にばあさんが孫に贈ったのだろう。それらに手をつける必要がないほど小遣いをもらっているのかもしれないが、孫の純一はびた一文使っていなかった。
その昔、僕のばあちゃんが会えばこっそり握らせてくれた千円札、そんな千円をなかなか使えなかったことを思い出した。
少しだけだが収穫はあったし、今日のところはこれで退散するか。僕は一度手にした札を袋に戻した。
ふたたび風呂場で靴を履いて外に出る。表玄関にまわった所でひとりの少年とばったり出会ってしまった。これが純一か。ひょろりとした色白の少年だ。
「本日の点検、異常なしでした」
「は、はあ……」
純一のいぶかしげな声を背に、急いで家をあとにした。歩きながら笑いがこみあげてくる。
――純一、ばあちゃん孝行しろよ。
空き巣にドラマあり。あぶない仕事だが思ったほど悪くはない。清々しい気分で空を見上げていると、ふいに先輩の声が聞こえた。
「いいか、家に入る前に、まず防犯カメラのチェックだ」
あ……。僕の心臓は飛び出すかと思われるほど激しく鳴り出した。