阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ソラシド」いとうりん
日曜日の昼下がり、君がピアノを弾いている。その横で、五歳の春香が歌を歌っている。僕たちの可愛い娘は、少し舌足らずのあどけない声で歌う。
「ドはドーナッツのド、レはレモンのレ」
ドレミの歌だ。まるでサウンドオブミュージックみたいだ。そういえば君の笑顔は、あの女優に少し似ている。
幸せとは、きっとこういうひと時のことをいうのだろう。君がプロポーズを受けてくれたときが人生の最高潮だと思っていたのに、それ以上の幸せがたくさんあることを、娘の春香が教えてくれた。
「ソ」のところで、春香が急に歌をやめた。
「ねえママ、ソだけが他と違うのはなぜ?」
「えっ?」
君は怪訝な顔で春香を見た。
「ドはドーナッツ、レはレモン、ミはみんな、ファはファイト、全部音符と同じ文字から始まるのに、ソだけが違うよ」
春香は、「ソはあおいそら~」と歌った。
「ねっ、ソだけが違う言葉で始まるよ。どうしてかなあ。あとね、空は青いだけじゃないよ。赤いときも黒いときも灰色のときもあるよ。ねえ、おかしいよね」
春香は、何にでも疑問を持つ子どもだ。「なぜ?どうして?」が実に多い。僕はそういうところが素晴らしいと思っている。とても賢い子どもだ。君はいつも答えに迷う。さて、今日はどんなふうに応えるのだろう。「ねえ、ねえ」とまとわりつく春香と君を、僕はニヤニヤしながら見ていた。
君は突然、両手で鍵盤を思い切り叩いた。静かな部屋に、不協和音が鳴り響いた。
「知らないわよ。どうでもいいじゃない、そんなこと!」
一瞬の静けさの後、春香が大声で泣き出した。君はピアノを離れてソファーに座り、苛立ちとモヤモヤを抑えきれずに震えた。僕は春香の髪を撫で、「大丈夫だよ」と言った。「ママは少し疲れているんだよ」と。
春香は泣き止まない。重い空気が部屋中のカーテンを暗い色に染めていく。
「春香のことは僕にまかせて」
僕の声を振り払うように、君は頭を抱えた。頷くこともなく、こめかみを抑えて耳をふさいだ。春香の泣き声だけが四角い部屋を支配していた。
やがて日が暮れて、赤い夕焼けがレースのカーテンをミカンみたいな暖色に染めた。
「見て、ママ、お空が赤いよ」
ようやく泣き止んだ春香が、君の腕をそっとつかんだ。本当に、きれいな夕焼けだ。泣きたくなるような、きれいな夕焼けだ。
君はようやく立ち上がり、春香の小さな手を握った。
「本当にきれいな赤い空。目に染みるわ」
「目にしみる?何がしみるの?痛い?」
あどけない顔で見上げる春香に、君の心が丸く溶ける。
「どこも痛くないわ。悲しいだけよ」
「きれいなのに、悲しいの?」
「きれいだから、悲しいの」
君はしゃがんで、春香と目線を合わせた。そして優しく抱き寄せた。
「それでいいよ」
僕は後ろから、そっとふたりを見守った。もう見守ることしか出来ないからね。
「パパにも見せてあげようよ」
春香が祭壇から、僕の写真を持って来た。三人で遊園地に行ったときに撮ったものを、切り抜いて引き延ばした写真だ。僕は笑っている。その横で、君と春香も笑っていた。楽しかった思い出から、僕だけが切り取られてしまった。
「ほらママ、三人で見てるよ。赤いきれいなお空を、ママとパパと春香の三人で見てるよ」
「そうだね」
君が、やっと笑った。
もう大丈夫だね。僕は空へ帰るよ。
ふたたび、美しいピアノの音が聞こえた。春香が歌う。舌足らずのあどけない声で、可愛く歌う。
「シはしあわせよ」
幸せか……。誰にも聞こえない声でつぶやいた。君と春香の幸せを、僕はずっと祈っている。永遠に、空の上から。