文章表現トレーニングジム 佳作「恩人」こっち
第23回 文章表現トレーニングジム 佳作「恩人」こっち
祖母の何度目かの法事のとき、我が家には親戚一同が集まっていた。二間続きの座敷で大人たちは酒を飲み、ご馳走を食べ、母は座る暇もなく働いていた。そんな中、遠縁のハヤトくんが泣き出したのだ。どんなにあやしても泣き止まないハヤトくん。その様子を見て母が言った。
「あんたのぬいぐるみ、一つあげなさい」
たしかに私は当時中学生であり、ぬいぐるみを可愛がる歳でもなかった。しかし、物心ついたときから一緒に過ごしたぬいぐるみは私の分身そのものであり、人にあげることなど考えたこともなかった。母の一言に全身の血の気が引いた。そんな私の気も知らず、ハヤトくんママは
「良かったね。ハヤト」
と呼びかけている。
私は震える足取りで自室に向かった。押し入れを開けると、すべてのぬいぐるみがつぶらな瞳を向けてくる。私は今からこの中の一つを選ばなければならない。もう頭の中はパニックだった。
そのとき、背後から声がした。
「あんた、本当はあげたくないんでしょ」
二つ年上の姉だった。涙目で頷くと、姉は踵を返して出て行った。姉は自分のぬいぐるみをハヤトくんにあげた。後にも先にもあんなに格好いい姉を見たことがない。
あれから三十年。私は姉に頭が上がらない。