阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「私には夢がある」 三浦雅行
ようやく完成、上出来よ。
私はこの作品で憧れの阿刀田先生に認められ、小説家への一歩を歩みだすのだ。思わず顔がにやけてしまう。
もう一度だけ推敲してみよう。誤字脱字があってはこの傑作が台無しになってしまう。
私は原稿を印刷して、入念に推敲を重ねる。完璧だ。これ以上削りようのない宝石のような文章が刻まれている。百カラットはある世界で最大のダイヤモンドだ。私はすべてを出し尽くした。この短編小説は私のすべてだ。
念のため、応募要項をもう一度確認してみる。憧れの阿刀田先生、待っててね。そんな浮ついた気持ちで応募要項をにやにやと眺めている。至福のひとときだ。
待て!私は衝撃のあまり脳卒中と心臓発作を同時に起こしかけた。
なにかの見間違いか。何度も見返す。けれどどれだけ読み返そうと応募要項の課題は「ピン」になっている。
嘘だ、嘘でしょ。
課題は「ピンチ」だと思い込んで、すでに傑作を書き上げてしまった。「ピンチ」じゃなかったの。そんな馬鹿な。もう「ピンチ」をテーマに、入魂の一作を仕上げてしまった。
どれだけパソコンの画面をにらみ続けようと課題は「ピン」のままだ。
そんな馬鹿な、大ピンチ。私はパソコンの前で途方に暮れてしまった。締め切りまであと一日、正確には十七時間と二十二分しかない。
何か解決策はないか。名探偵のようにピンとひらめかないものか。だめだ、この「ピンチ」の一世一代の傑作を「ピン」をテーマにした内容に変更することはできない。ピンなんて一本も出てこないのだ。ピンなんてくそくらえよ!
「小説の神様の馬鹿野郎!なんだって私にばっかり試練を与えるのよ」
私は書き上げたばかりの「ピンチ」をテーマにした原稿をぐちゃぐちゃに丸めてしまう。
執筆に使用していたノートパソコンまで叩き壊そうとするが何とか思いとどまった。落ち着け、十万円もするんだ。そんなもったいないことをしたらだめ。心の中で私の打算的な声が響く。
しばらく泣きくれた私は深いため息とともに立ち上がる。
私は夢のためなら何度だって立ち上がり、歩み続ける。
私は世界で最も偉大な小説家になるのだ。
その夢のためなら、何度でも、何度でも。
私は新たに小説を書き始める。もちろん「ピン」をテーマにした小説だ。
でもピンとこない。先ほど書き上げた「ピンチ」をテーマにした小説に私のすべてを出し尽くしたのだ。もう何も思い浮かばない。沸騰した鍋に何時間も踊り続けた昆布以上に何も出てこない。
だめだ。ここで諦めたら小説家になんてなれない。やるんだ。やるしかない。たとえやれなくてもやるんだ。私ならできる。
必死に自分を励ましながら、一字一字綴っていく。噛み締めた唇から血が滴っていることにも気付かぬまま、私は小説を書き綴る。
でも進まない。一向にはかどらない。
締め切りが刻一刻と迫ってくる。
いつの間にか夜の九時になっている。あと三時間しか残されていない。
焦れば焦るほど、筆がはかどらない。
罠に足を挟まれた熊みたいに唸りながら、私は小説の構想を必死に考える。
筆がぱったりと止まる。もはや何も思い浮かばない。
いつの間にか睡魔に襲われていた。
机に突っ伏していた私ははっと目覚める。十一時を回っている。もう時間がない。
巨大な津波となった睡魔が私を違う世界に引きずっていく。
私は必死にあらがう。私には夢がある。夢のために負けられない。
私は引き出しから安全ピンを取り出し、机にむかう。
小説を書きながら、睡魔が私をさらいにくるたび安全ピンで太ももを刺す。
束の間は覚醒するが、再び睡魔がやってくる。私は左の手の甲を刺してみる。
手の甲から赤い球が染み出てくる。私は血を舐めて、うっとりする。
何度も何度も手の甲を刺してみる。舌先で血を舐めとる。
恍惚のあまり、失神しそうになる。
そのとき、私ははっきりと悟る。
私は小説家になりたいんじゃない。
SMの女王になりたいんだ。
これが、私が歌舞伎町でナンバーワンのSM女王になったいきさつよ。