阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「初体験」 杉山聡子
僕の住むアパートの駐車場わきには、どっしりとした一本の大木が生えていたんだ。夏になると毎年、その大木に蝉が何匹も張り付いて鳴き声の大合唱になってね。うるさいなんてものじゃなかったよ。
小学校最後の夏休みも、僕はエアコンに頼らず扇風機と水分補給だけで猛暑を耐えぬくと決めていた。少しでも家計の負担を減らしたかったからね。蝉たちの発する大音量にさらされながら宿題をやっつけていくんだ。残り少ない算数のプリントを書きなぐっていると、だんだん気が遠くなってきたもんだよ。これがトランス状態か?変性意識ってヤツなのかな?読み終えたばかりのSF小説に出てきた単語が、脳内にひらめいては消えていく。そんな状態に陥ったとき、うちの呼び鈴のけたたましいブザー音が鳴って、僕はわれに返ったんだ。
玄関のドアにチェーンをかけてから、僕は用心深く扉を半開きにした。外に立っていたのは、大きめのビジネスバッグを手に提げた、スーツ姿の男だったよ。二十代前半くらいの見た目で、スマートなイケメンだね。質実剛健さを好む僕とは正反対のタイプだ。
彼は僕と目が合うと、いかにもうさん臭い好青年風の笑顔で話しかけてきたよ。
「こんにちは、お父さんかお母さんはいるかな」
てね。僕は、「いません」て、即答したよ。で、すぐに扉を閉めようとしたんだけど、彼は意外にも強い握力の持ち主だったんだ。僕は必死で扉を閉めようとしたけど、扉の外側のドアノブを握りしめる彼の握力には敵わなかった。落ち込んだね。そんな僕に彼は穏やかな声で、こう言ったんだ。
「ドアのチェーンはつけたままでいいから、話だけでも聞いてくれないかな」
彼の握力と、敗者である僕に対する紳士的な対応に敬意を表して、言われた通り話を聞くことにした。
彼は小中学生向けの学習教材を作っている会社の、訪問販売員だということだった。扉のすきまからもらった名刺に印刷されていたのは、見たことも聞いた事もない会社だったけどね。彼は僕に言った。
「夏休みの宿題で手こずっているものはないかな?例えば、そうだね」
彼は、ここで一息ついて、僕の目をのぞきこむように見ると言った。
「自由研究とか」
僕は、びっくりしてしまった。
「どうしてわかったんですか?」
「わかった、ていうかヤマ勘だけどね」
照れながら言う彼を、僕は称賛せずにはいられなかった。
「謙遜するところが、ますますカッコイイです。あの僕、自由研究のテーマが決まってなくて。本当はプログラミングとかやってみたいんだけどお金かかるし。タダで手っ取り早いのは昆虫採集なんだけど、僕、虫が苦手で」
すると彼は、おもむろにビジネスバッグから、どう見ても洋裁に使うマチ針にしか見えないものを取り出した。虫が苦手過ぎて涙ぐむ僕に、彼は同情しながら言ったものだよ。
「これは洋裁のマチ針じゃない。実は一発で仕留められる昆虫標本用の虫ピンなんだ。ほら、試しにここに転がっている蝉に刺してみてごらん。もう死んでるから大丈夫。この針、夏休み価格で安くしておくからね。さあ!」
僕は覚悟を決めて扉のすきまから手を伸ばし、蝉の死骸に虫ピンを刺した。その瞬間、僕の指先から頭にかけて電流が走ったような感覚があったんだ。蝉は急に鳴き声を上げて、マチ針を刺したまま飛び去っていったよ。
その時僕の中で鍼灸師としての何かが目覚めたんだね。これが僕の初めての、鍼治療体験かな。昆虫標本のちゃんとした作り方は、今もわからないけどね。言っておくけど僕は、ゴッドハンドでもカリスマ鍼灸師でもないよ。