阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「相方」日出彦
不安でしかなかった。生涯、ともにお笑い界の天下を取るまで頑張ろうと誓い合った相方が、唐突にやめると言い出したのだ。
相方――不動啓太は、俺がボケの天才と認めた男だ。お笑いの養成所で知り合った。
特に目立つタイプではなかったが、ひとたび口を開くと、その声質、独特の間、言葉の選択がいちいち俺の腹筋を破壊した。
「俺、前島進一。コンビ組まないか」颯爽と手を差し出すと、「俺たちライバルだろ。人のネタ見て平気で笑うようなヘボとは組まないから」と、その手を啓太は払いのけた。
ところが、後日訊ねると、キャラ真逆の俺のことが一目見たときから気になっていたそうだ。ボケの天才とは、平気でうそがつけるものだ。
あまのじゃく、ひねくれもん、俺はますます啓太のことが気に入った。
「彼女に子どもができたみたいでさ」
「それで簡単にやめちゃうのかよ」
「簡単じゃないよ、真剣に考えたさ。けど、堕ろせ、とは言えなかった。俺に責任があるわけだし。だったら、まともに働かないと」
普段、飄々としているボケの天才が、いつになくまじめな表情で訴えた。
「お笑いで稼げばいいじゃないか」
「何年かかると思ってんだ。お気軽だな」
啓太がフンと鼻で嗤った。
その態度が妙に気に障り、怒鳴りかけて、店員の視線に心を静めた。
啓太から話があると電話があって、ファミレスを指定してきた理由がわかった。
もし、まわりに人がいなかったら、大声を張り上げ、胸倉掴んでいたかもしれない。
啓太はつづけた。
「そりゃあ、俺だって本気で売れたいと思ってるよ。実際に、売れるとも思ってる。けどさ、一年、二年ってわけにはおそらくいかない。そんなにあまくはないよ、芸能界は。それまでのあいだ、どうやって食っていくんだ。家族三人、将来のある子どもを抱えてさ」
返す言葉がみつからない。急激に孤独感に襲われた。天才啓太を失って、売れていく道筋がかすんでいく。
「ほかの相方を探せよ」
「啓太よりすぐれた才能に出会えるとは、とても思えないよ」
一瞬のことだったが、啓太の表情が超高速に複雑に変化したように見えた。
「ピンでやっていったらどうだ?」
「俺はガキのころから漫才に憧れてこっちの世界に飛び込んだんだ。ピンなんて、考えたこともないよ」
「そうか」それきり啓太は、うつむいたまま動かずにいた。
ピンなんて考えたこともない……が、真剣に考える時期が訪れたのかもしれない。啓太にダメと言われて、ほいそれとほかの相方と組む気にはなれない。かといって、お笑いをやめる気にもなれないのだから。
細く長い息を吐いた。思わずうなり声となった。となりの席で彼氏の浮気がどうのこうのと、平和な会話に夢中になっていた女子高生が、ハッと反応したほどだ。
くくく。
どこからか声がした。
俺は瞬時に左右をみまわした。
犯人がわかった。
目の前の男だ。
うつむいた姿勢でかすかに肩を振るわせ、声を漏らしている。おもむろに上げた顔に嘲笑が浮かんでいた。ペロッと舌を出す。
まさか。
「進一、おまえは人を疑うことを知らないやつだな。だいたい、俺には彼女なんていないし。いまだチェリーボーイだし」
「この野郎!」
忘れていた。啓太は平気でうそがつける天才なのだ。……いや、思っていたより正直な男なのかもしれないとも思った。さっき、啓太の表情が複雑に変化したのは、俺に心底認められていることを実感したからではないか? ネタばれが早いと感じた。啓太なら、俺をさんざんガッカリさせたところで、家に帰ってから「うそだよ~ん」なんて気の抜けたメールが平然とできるだろう。罪悪感にかられたか……?
「啓太、チェリーボーってのは案外本当だろ」
「ああ、本当だ」
空気が変わった。啓太がいつもの飄々さを取り戻した。なににも動じないこの男特有の無敵の構えだ……やはり、あの複雑な表情も迫真の演技だったのではと思えてきた……。
とにかくも、天才啓太が帰って来た。
俺たちの未来は明るい。
いや……派手に背もたれに体を預け、意味不明にひょっとこの仕草でストローをくわえる目の前の男が、生涯ともにやっていこうと約束したのも、うそでなければの話なのだが……。