阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「あやしい商売人」白浜釘之
「あなたの時間を五分間だけ売って下さい」
学生時代のある日、なんとなくいつもより早く起きて、一本早い電車で学校へ行こうとしていた道のりで、いきなり話しかけられたのがその男との初めての出会いだった。
無視しようと足を速めると、
「ちょっと待ってください。私は時間を取り引きしている商売人で、決して怪しいものではございません。時間を売って頂けるならちゃんとした対価はお支払いいたします」
「へえ、お金くれるんだ」
私は、時間に余裕があったせいもあり、足を止めて男の方に向き直った。
男は、妙に愛想のいい表情を浮かべていたが、どこにでもいそうな、あまり印象に残らないような顔立ちをしていた。
「ええ、時間に余裕のある方から時間を買って、それを時間に余裕のない方に少し色を付けて買っていただくのが私の商売ですから」
「へえ……で、いくらで買ってくれるの?」
男の提示した金額は、私の想像していた金額をかなり上回るものだった。
「よし、売った!」
私は思わず笑いながらそう言った。
どうせ何かのいたずらだと思ったからだ。
「ありがとうございます。」
男はそう言うと、まるでふっと消えるようにそのままいなくなった。
何故か軽いめまいのようなものを感じたが、別に何ということもなく駅に向かうと、なぜか予定していた時間よりも5分間遅く駅に到着し、結局一本早い電車ではなくいつもの電車に乗ることになってしまった。
そのうえ、妙に財布が膨らんでいるので何気なく見てみると、先ほど男が提示した額の金が財布の中に入っていた。
「あれは本当のことだったのか……」
そう呟いて、男の顔を思い出そうとしたが、妙に愛想のいい笑みだけが印象に残り、男の顔はおぼろげにしか思い出せなかった。
次に男に会ったのは、午後の授業が全て休講になり、時間を潰すために図書館で趣味の小説を書くためのアイディアでも練ろうかと思っていた時だ。
「この間はありがとうございました」
不意に隣の席に座って、私の耳元でそう囁いた男は、例によって愛想のいい笑みを浮かべていた。
「本当に五分間のボクの時間を買ったんですね」
「ええ、おかげさまでいい商売をさせて頂きました。今回はちょっと長く、三時間ほどあなたの時間を買わせて頂きたいのですが」
男はまたこちらが驚く程の金額を提示してきた。
特に断る理由もなかったので、今回も二つ返事で承諾した。
……いつの間にか眠っていたらしい。
三時間後に目覚めた私は、今の会話は夢だったのかと思いつつ、ノートをしまうために鞄を開けてびっくりした。
男が言った金額の札束が入っていたのだ。
男はその後もちょくちょく現れ、私の時間を少しだけ買っていっては、その見返りに多額の金を置いていった。
やがて、私も勤め人となり、生活も安定してくるにつれ、男が時間を買いに来ることは少なくなり、中年に差し掛かるころにはまったく現れなくなった。
定年まで無事に会社を勤め上げ、いくつか恋愛経験はしたものの、結婚はしなかったが、私は自分の人生にそれなりに満足していた。
やがて、病魔に倒れ、死期を悟った時にあの男がいきなり現れた。
「もう君に売れる時間はないよ。昔はよく君に買ってもらってずいぶん助けられたけど」
私がそう言うと、男は例の笑みを浮かべ、
「とんでもない。私の方こそあなたには貴重な『チャンス』を売って頂いてずいぶん助かりましたよ。電車を一本遅らせる時間で運命の女性と会うことを避けたり、のちのベストセラーとなる小説のアイディアが浮かぶはずの時間を売って頂いて、その小説を書きあげることなく済ましてもらったり……」
「ちょっと待ってくれ、じゃあ、私が売った時間というのは……」
「あなたの人生における『チャンス』だったというわけです……あなたの人生におけるライバルたちからの依頼でね。こちらも商売ですから、いきなり「チャンスを売って下さい、と言ったら断られると思いましてね。あなたに渡したお金もその方々から頂いたものです。私のマージンは差し引いていますがね」
「どうして人生の最後にそんな話をしに来たんだ。知らずにいれば安らかに死んでいくことができたのに……それが商売人の優しさってやつなのかい?」
「いえ、安らかに死んだ魂よりも悔いを残した魂の方が死神に高く買ってもらえるんです。……これも商売ですのでね」
男はそう言って悪魔のように微笑んだ。