阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ひとり出勤」家間歳和
オフィスのエアコンをオンにした。しばらくの沈黙のあと、吹き出し口が、まだ冷たさの足りない風を排出した。
広い室内にいるのは僕ひとりだ。その僕だけのために冷房を入れるのは、なんだか申しわけない気もするが、仕方がない。この猛暑日に、蒸し風呂状態のオフィスで仕事ができるはずもないのだから。
今日は八月十五日。会社は盆休みの真っただ中だ。どうしても、この日に処理しなければいけない仕事が発生した。別に僕でなくてもいい仕事ではあったのだが……。
「八月十五日か。すまん、俺は無理だ」
「ちょっと、やばいな。八月十五日だけは」
「十六日ならオーケーなんだがなぁ」
などなど。先輩たちは皆、口を揃えて八月十五日の休日出勤を渋った。
入社二年目、この課では一番の末端社員である僕。家族サービスをする家族があるでもなく、帰省しなければいけない田舎があるでもない。だらだら過ごすだけの盆休みより、休日手当をもらえる出勤のほうが有意義かなと思い、「僕が出ます」と手を挙げた。
都会のオフィス街のお盆は異様だ。人も車も音も極端に消え失せており、当たり前と思っていた喧騒が、嘘のような沈黙だ。ここはパラレルワールド? と思ってしまう。
普段、土日に休日出勤するオフィス街は、もう少し音がある。車も走っている。人出もある。この室内も、必ず数人の同士がいたりするのだが、今日はたったひとり、僕だけ。まるで世界が終わってしまったような錯覚が行き来する、不思議空間だった。
いつもはまったく聞こえない、壁に掛かった時計のコチコチ音が、ボリュームを上げて耳に入る。ときどき仕事を思い出したように機械音を強めるエアコン。ようやく生温い空気を冷風が追いやったようで、じんわり湿っていた肌も、さらりとなっていた。
早く仕事を処理してしまおうと、パソコン操作に集中し始めた、そのときだった。
トゥルルル! トゥルルル!
コチコチ音の百万倍と思える音量で、机上の電話が外線の着信音を轟かせた。
誰だ? こんな日に。
電話のディスプレイに目をやると、「シーザーデンキKK」と表示されていた。知らない会社名だ。僕の課の客ではない。他の部署の得意先であろう。
今日は完全休日。別に出る必要はないので無視しようと頭では思っていたのだが、仕事モードスイッチの入っている僕の条件反射筋肉が、受話器を持ち上げていた。
「はい、桃塚機器販売です」
「お世話になっております。シーザーデンキの殿崎でございます」
声色を聞いて少しホッとした。機嫌の悪い声ではない。トラブルではなさそうだ。
「お世話になっております。あいにく本日は休業日でして、お盆明けにでも……」
用件を聞く前に済ませてしまおうと言葉を発したのだが、相手は興奮気味に僕の声をさえぎり、話を進めた。
「ああ、つながってよかった。緊急でお願いした例の商品、今朝、間違いなく届きましたので、御礼をと思いまして。いや?、本当に助かりましたよ。間に合わなかったら、社長の私が首をくくらなければいけないところでしたからねぇ。感謝、感謝、大感謝です。本当に、本当にありがとうございました」
よほど重要な納品だったのであろう。声に嬉しさがこぼれている。我が手柄ではないのだが、なんとなく僕の鼻も高々だ。
「桃塚機器販売様々です。これからも末永いおつきあい、よろしくお願いします」
口をはさむ隙間を与えられることもなく、上機嫌の電話は切れた。自分の気分も少しハイになっていることに苦笑する。
ところでシーザーデンキって、どの課の担当だろう。御礼があったと、盆明けにでも伝えなければいけないので、得意先ソフトで検索してみた、が……ないぞ。でも、電話機には登録されていたので……あれ? 最新の着信履歴が三日前になっている。しかもシーザーデンキではない。電話機内登録の「シ」の覧を確認してみる。やはり……ない。
どういうことだ?
混乱が混乱を呼ぶ。シーザーデンキ? 知らない会社名だが、聞いた覚えがないこともない、と、そんな気もする。もしかしてと思い、過去の取引先ソフトで検索してみた……あった……七年前まで隣の課で取引していた会社だ。え? バカな……。
そこには〈七年前の八月十五日、社長の殿崎氏死去に伴い取引中止、シーザーデンキは倒産〉という内容の文が記されていた。
そ、そんな。じゃあ、今の電話は……。
急に機械音を強めたエアコンの冷風が、僕の首筋をひと撫でした。