阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「面影」井上薫子
(急がなきゃ……)
オフィスの一角。時計を気にしながら、京子はパソコンのキーボードを叩いた。時刻は午後八時過ぎ。空には星が散らばっている。
今夜は、信之と食事をする約束だったが、京子の担当する取引先からどうしても、今夜中に終わらせなければならない仕事が入ってしまった。
(待っててくれるかしら……)
信之は結構、短気だ。先日も待ち合わせ場所に京子が五分遅れただけで、不機嫌そうにしていた。何本もの煙草の吸い殻が、灰皿にたまっているのを見た。
(でも彼は将来、結婚する人なのだし……)
結婚すれば当然、京子は仕事を辞める。そんなこと、面と向かって話し合ったことはないが、信之の性格からすれば、それが当たりまえだろう。
(今の仕事、嫌いじゃないわ)
忙しいけれど、それなりにやりがいもある。
ここ一年の間に、京子の担当もずい分とふえた。できれば結婚しても続けたい。それが本音だった。
「三崎さん」
その時、ふいに背後から声を掛けられて、京子は驚いて振り返った。
「お手伝いしましょうか」
見ると、ずんぐりとした丸い鼻と、頬を真っ赤にさせ、黒目がちな瞳はいつも以上に垂れていて、まるで雨に打たれた仔犬のような青年がそこに立っていた。
「なんだ。啓ちゃんか」
京子は安堵の胸を撫でおろした。
「無理よ。あたしにしかわからないことだから」
当然のように突っぱねた。
(この人どうしてこんな時間までいるのかしら。あたしのことずっと見てたの?)
啓ちゃんの本名は啓二。だから啓ちゃん。
職場では仕事が出来る人じゃないけれど、いわゆるムードメーカー。雑用ばかり任されているのに、イヤな顔ひとつせず、みんなのお茶まで入れていた。
忘年会や新年会では、いつも京子の横にちんまりと座っている。
だから同僚の明美に言われたことがある。
「啓ちゃん、京子のこと好きなんじゃないの」
「まさか。五つも年下よ」
実際、京子にとって啓ちゃんは空気のような存在でしかなかった。
「これ」
啓ちゃんは右手に持っていたコンビニの袋を京子に差し出した。
「お腹すくし、寒いから」
中にはたった今、買ってきたのであろう肉まんが二つ入っていた。
「いらないわ。これから人と食事の約束をしてあるから」
つっけんどんに袋を押し返して、パソコンの画面に目を戻した。
しばらくして、
「さぁ、終わった!」
京子は最後のキーを勢いよく押した。
急いで椅子から立ち上がろうとして気づくと、いつのまにか啓ちゃんはいなくなっていた。
机のすみには肉まんの入った袋が置かれている。
(いいって言ったのに……)
京子はバツの悪い気持ちになったがそのまま帰り支度をして足早にオフィスを出た。
(ちょっときつかったかな……)
啓ちゃんの顔が思い浮かんだが、京子はすぐに打ち消そうとして首を振った。
(ううん。そんなことより心配するのは信之のほう。きっともう来てるわね。怒ってなければいいけど……)
歩きながら夜空の星を見上げた。思えば京子は今まで、こんなにじっくりと星を見たことがなかった。都会でもこんなに見えるものなのだと思った。なおも星に見入り、
(あのいちばん明るく見えるのは、おおいぬ座のシリウスね。右上に見えるのがオリオン座のペテルギウス。左上のプロキオンと結べば三角になるわ)
ハッとした。なぜ自分がこんなに星の名前を知っているのか。
瞬時にして時空を飛び超えた気がした。
遠い昔……満天の星の下……ふたり肩を寄せ合って夜空を見上げていた……星の名前をひとつひとつ教えてくれた黒目がちの……やさしい瞳の……前世の……記憶……
「啓ちゃん」
京子は足を止めた。啓ちゃんも今、同じ星を見ているだろうか。
啓ちゃんの後ろ姿が冬の大三角形の中に消えた。