阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「掃き溜めに星」大林基
「きっと、君に巡り会ったのは運命だと思うんだよ」
男は、地面まで届きそうなほど鼻の下を伸ばして、臭い息を放ちながら、それよりももっと臭い台詞を吐いた。何を言っているんだコイツは。私はのど元まで出かかった毒を懸命に抑えるのに必死だった。
「そうね。そうかもしれないわね」
「かもしれないじゃない、そうなんだよ。だって、考えてみてよ。世界中に男と女がどのくらいの数いると思う? その中で君と僕が出会うなんて、天文学的確率だろう」
そう言いながら、男は私の胸をまさぐった。
「シャワー浴びてから」
出来るだけ恋人気分を喪失させないように心がけながら、私は男の手を優しく振り払った。
私と男が出会ったのは、運命でも何でもない。彼は、明確な目的を持って店にやってきて、写真で指名し、私の時間を買ったのだ。
「お部屋、暗くする?」
「いや。明るいままでいいよ。だって、お互いの体が見えなくなるのは嫌だからね」
ピンク色の小汚い部屋は、照明を落としてようやくムードらしきものを醸し出すのだが、致し方ない。男は無防備に仰向けになった。その肉体は、トドのようにでっぷりと肥え、わずかな震動でもユラユラと揺れていた。年の頃は40といったところだろうか。ナルシストの色男が不摂生で太ると、こうした惨めな中年になる。私の仕事は、さほど難しくはない。男の体を隅々まで舐めつくし、体液を吐き出させる。簡単なミッションだ。だからこそ、確実に遂行させなくてはならない。それが、プロフェッショナルとしての私のわずかなプライドだった。ところがどうだろう。男は、私の愛撫を5秒と受けずに、攻守交代を申し出た。私は、男により仰向けにされた。この店で私は男にほとんど攻めさせる事はなかった。一つに私は自らの肉体には何の自信もなく、垂れ始めた胸を客に吸わせるのは、どうにも気が引けたからだ。それならば、私自身のサービスで多少なりとも満足してもらう方が良いと考えていた。大抵の客はそのことは暗黙の了解として受け止めていた。だから、私を攻めたりはしなかったのだ。
このトドはどういうわけか、私の肉体を好んだらしい。まるで、飢えた戦場の兵士が一週間ぶりに食事にありついたような、激しさだった。あーん、あーん…声を上げたが、フカンショウの私は何の快楽も感じなかった。遠い昔、夜のおつとめを果たすため、夫に抱かれているとき、こんな風に嘘のあえぎ声を咆哮し、ただ、時間が過ぎるのを待った。ふいに天井を見上げると、蜘蛛の巣が照明に照らされ星屑のように見えた。私は、青姦されているような妙な感覚に襲われた。
タイマーがピピピッ…と鳴った。あと、10分の合図だ。この辺りで私は仕事を終えなければならなかった。しかし、男は私に指一本触らせず、ひたすらに愛撫を続けた。これほど熱心に体を委ねられると、なぜだか愛情めいたものを男から感じてしまう。蜘蛛の巣の星を数えながら、わずかな快楽を感じ始めていた。それでも、このまま男を帰すわけにもいかなかった。
「あの~…そろそろ時間だけど」
私は恐る恐る声を掛けた。
「あ…そう」
「いいの?」
「何が?」
「だって、お兄さん、イッてないじゃない」
「そういえば、そうだね。今からお願いできる?」
「何で?」
「じゃあ、手で」
私は言われるままに、男自身に触れると10秒もしない間に、大量の体液が排出された。
果てると、男は無口になった。気障な台詞を吐くこともなく、服を着始めた。シャツの第2ボタンを締め終わる間際に、男は蝉の抜け殻のように背中を丸め、ぼそりとつぶやいた。
「昨日、妻が死んだんだ」
長襦袢の紐を締める手がぴたりと止まり、思わず男の顔を見た。男は薄気味悪い笑みを浮かべていた。その感情が、悲しみなのか、怒りなのか、それとも安堵なのか。推し量ることは出来なかったが、全て当てはまるようにも思えたほど玉虫色の光を放っていた。一体、私は彼の妻の代わりの時間を過ごせたのだろうか。男の言うように、運命の出会いだとするならばこの出会いが彼の人生にとって、いかほどかの意味を持たせることが出来たのだろうか。
男が帰った後、部屋で一人になった私は、ベッドの上に立ち、蜘蛛の巣を払った。もう天井に星が輝くことはなかった。