阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「星を得る者」田中源太郎
「私たちミシュランの者です。お手数ですが取材をさせて頂けませんか?」
会計から声が聞こえた。応対は総支配人の母親がしている。ダヴィッドはその客のテーブルを片付けていた。午後六時。七時からは予約が深夜まで埋まっているが、今はまだ他に客は居ない。今日、最初の予約だったのだ。
初めから、違和感のある客だった。
恋人同士、夫婦、愛人関係、初めてのデート。そういった男女ならなんとなく見て判る。テーブル越しに何かが在るのだ。それが、この男女には無かった。母親が給仕長のダンに指示し、ダンが奥の厨房に向かった。五分程してから、総料理長である親爺が出てきてその二人組とテーブルに付いた。
厨房に六人、ホールに三人、バーに一人。決して大きな店ではないが、パリ一番の店。ダヴィッドはそう思っていた。店は祖父の代から数えて五十年になる。料理の楽しさは祖父から教わった。高校を出てすぐ店に入りたかったが、大学は夜学ででも出なさいという母親からの条件が付いた。祖父は喜んでくれたが、親父は笑顔一つ見せなかった。厨房で見習いを一年過ぎた頃、ホールに出ろと言われ、そして一年が過ぎた。店を継ぐことが出来るのか、不安しかなかった。厨房には腕の良い料理人が他に何人もいるのだ。
「大変光栄な話だが遠慮させてもらうよ」
二人組がなにかを懸命に喋っていたが、ダヴィッドにはよく聞こえなかった。断る?
ドアが開き、客が入ってきた。ダヴィッドは入り口に向かった。月に一度来る老夫婦。祖父の頃からの客で、常連中の常連だった。
「予約の時間までバーでお待ちください」
母親が笑顔でそう言い、ダヴィッドが案内した。バーテンがグラスワインを出す。話が済んだのか親爺がバーに行きスツールに老夫婦と並んで腰かけ談笑し始めた。二人組が席を立った。ダヴィッドはドアまで案内した。同時に二組客が入ってきた。一組は予約客。一組は予約なし。予約で一杯なのでバーカウンターでならと母親。もう一組を席に案内し、メニュを渡した。この一年で四回目のカップル。女性の方が毎回メインを肉にする。スープは無し。ワインの指定を受けた。なぜかいつも魚に合うワイン。ドアが開きまた一組入ってきた。ダンにワインを伝え、ダヴィッドはドアに向かった。予約なしの一組がバーに向かった。親爺が厨房に戻った。夜が始まる。
一時間後、テーブルは全て埋まっていた。バーでは席が無く、立って飲んでる客もいた。バーテンのレオに客がなぞなぞを出す。レオは必ずそれに正当する。不正当なら一杯奢る。
「喋らせたら一日中でも喋る。けど一歩も歩かない。それはなに?」
間髪入れず、「俺のカミさんとスピーカーだ」と、レオ。バーが賑わわない日は無い。
テーブルで女性客が顔を覆って泣き出す。男性が周りを気にしながら狼狽える。ダンがサッと歩み寄ってなにも言わず男性にハンカチを渡して肯く。男性がハンカチを女性に差し出す。泣き止まない。もう一枚ハンカチを男性に渡す。それを男性が女性に渡す。女性が笑い出すまでに四枚のハンカチを渡した。それを見ていた客全員が安心する。
グラスと食器の音。話し声と笑い声に泣き声。レストランの半分が目の前に在った。肉の焼ける音、香り。フライパンと燃え上がる火の音。急げという声。それが残りの半分だ。
ランチからディナーのこの時間までがダヴィッドの就業時間だった。これから大学の夜間に行かなければならない。大学を修了する。それが条件なのだ。店を継げるのか以前に、まだ、店の一員にさえ成れていない。
スタッフ全員に挨拶をし、更衣室で着替えて裏口から出た。外に出ると店の賑やかさが嘘のようだった。自転車の鍵を外してる時、人影に気付いた。ミシュランの女性の方。自転車を押し、会釈をして通り過ぎようとしたが、ダヴィッドは訊いてみた。
「誰かに用なら呼びましょうか?」
「いいえ結構よ、ありがとう。ミシュランの調査員でエマです、よろしく」そして肩をすぼめ、「ガイドへの掲載、断られたわ」
残念そうに言うので、残念でしたねとダヴィッドは返した。残念なのはこっちだが。
「そう、残念。だからシェフにもう一回頼もうと思って待ってるの。でも二年後。その時に声が掛かれば家族で相談する。それがスタッフ全員の意見なんですって?二年前は四年後って言われたわ。どういうことかしら?パリだけでまだ十一店舗あるの、首を縦に振らない店が」エマが空を見上げて続けた。「それを掲載してみせるのが調査員の、なんというか、星なの。」
すぐには解らなかった。二年後。二年前も。
親爺がそう言った?みんなの意見?ダヴィッドは自転車に飛び乗った。ペダルを踏む脚に力が入る。早く大学に着けば、早く卒業出来るとでも思っているのだろう。