阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「教えてくれた人」田辺ふみ
カチャ。
ドアノブを動かす音にハッと目を覚ました。
耳をすますと、さらにカチャカチャという音が聞こえる。
すぐに起き上がって、玄関に向かった。
母がドアを開けようと、無茶苦茶にドアノブを動かしている。
ただ、勝手に外に出歩く心配はない。鍵を徘徊防止用につまみを取り外せるものに変えて、そのつまみはわたしが保管している。
「お母さん、外は寒いから、お出かけは今度にしようね」
優しく声をかけた。
「あなた、誰? 人を閉じ込めていいと思っているの?」
母はヒステリックに叫ぶ。
また、わたしのことを忘れてしまった。
「わたしはお手伝いに来ている者です。夜だから戸締りしているだけですよ」
母はいいところのお嬢さんだったらしい。
実家には奉公人が何人もいたというが、本当のことかどうかはわからない。ただ、お手伝いなら、知らない顔がいても仕方がないと思ってくれる。
「さ、お休みください」
寝室に案内しようとすると、そわそわするので、トイレに連れて行った。
今日は暴れることもなく、上手く落ち着かせることができたと思っていたら、今度はトイレから出て来ない。
トイレのドアの鍵はかけられないようにしているので、少し開けてのぞくと、母は床にしゃがみこんでいる。
「大丈夫?」
あわてて、一緒にしゃがみこむと、冷たさに気づいた。
尿がこぼれている。
母が拭いてごまかそうとしたのだろう。トイレの床一面に広げられてしまっている。
濡れた服を脱がせ、風呂場で体を洗い、服を着せ、寝かしつけ、それから、トイレを掃除し終わったときには、目を覚ましてから、一時間以上が経っていた。
もう一度、横になると、ため息が出た。
要介護認定の調査では母はいつもしっかりした態度をみせる。だから、いつでもランクは低く判定されてしまう。せめて、もっと、支援サービスを受けることができれば、楽になるのに。
屋根から雪が落ちる音が聞こえてきた。明日は雪かきをしないといけない。会社が休みの日でよかった。そう考えているうちに眠ってしまった。
いつもより寝過ごしてしまったが、朝食前に雪かきを始めた。家の前から大きな道まではきれいにしておかなければならない。
空はどんよりとした灰色で寒いのに、さらに雪が降ってくる。
いいかげんに片付けて、家に入ると、いきなり、つまずいてしまった。
また、外に出ようとしていたのか、母がうずくまっている。
「ごめん、大丈夫?」
たずねても、返事がない。
顔をのぞきこむと、目をつぶっている。
「お母さん、お母さん」
意識がない。あわてて、救急に電話をかけようとしたが、手が止まった。このまま、亡くなってくれたら、楽になれる。
「もういい?」
長い間、見たことのないおだやかな母の表情。きっと、わたしを許してくれる。そう思ってしまうような優しい顔。
それに母はいつも言っていた。
『死ぬなら、ころりと死にたい』
今がチャンスかもしれない。
母が倒れていることに気づかず、そのままになっていたら。いつものようにしっかりと雪かきをして、家に戻ってくるのが遅かったら。
もう一度、そっと、外に出た。
いつの間にか、空は晴れて、屋根や道路に降り積もった雪がまぶしい。
ちらほらと雪が降っている。
「風花」
口に出すと思い出した。
『晴れた空から降ってくる雪を風花というのよ。きれいでしょう』
母がそう教えてくれたのは、小学校の時だろうか。
二人でしばらく見とれていたのを覚えている。寒い中、母とつないだ手だけが暖かかった。
あのときと同じような青い空。白い雪が降ってくる。本物の花びらのように軽やかに舞いながら。
今、わたしの手に温かい母の手はない。
わたしは携帯電話を取り出すと、一、一、九と番号を押した。