阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「片道きっぷ」あべせつ
蟹のシーズンには、まだ間があるせいか特急こうのとりのグリーン車はガラガラだった。後部側のドアから乗り込むと、始発駅から乗っているはずの佐野の姿を目で探す。
しかしどうしたことか、それらしい姿は見当たらず、後列の中年の夫婦と最前列の老人の白髪頭が見えただけだった。
「この列車に間違いないよな?」
不安になり、きっぷに印字された文字を確認してみる。
「おおい、久保君。こっちだ」
見れば、最前列の白髪頭がこちらを向いて手招きをしている。
――ええっ、あれが佐野? まだ四十路前なのに、この老けようはどうしたことだろうか?
半信半疑のまま、その男の座るボックス席に行くと、向かいの席に腰をおろした。
「やあ、久保君、来てくれたんだね。うれしいよ」
挨拶もせず無言で睨み付けている俺に、戸惑ったようにしながらも、佐野は話し続けた。
「七年経つのに、君は変わらないな。元気そうでよかった」
――何が元気なものか。お前のせいで、こっちは散々だったんだ。
腹の中で毒づきながらも、俺は先日来の疑問を奴に問いただした。
「で、今日は俺に何の用があるんだ? わざわざ、こんな手の込んだ呼び出し方をしてまで幸せ自慢をしたいのか?」
「まさか、ちがうよ。つい先日、君のうわさを聞いたから、心配になってな。連絡を取ろうにも、携帯番号もメアドも変わってるし、手紙を出しても宛先不明で戻ってくるし」
「それで実家にきっぷを送ってきたっていうわけか。俺がいまだに独身で、仕事も転々とした揚げ句にプータロウをしてると聞いて、多少は良心の呵責を感じてるってわけかよ」
「君には申し訳のないことをしたと思ってる。でも信じてくれ。君と久美が付き合ってたなんて、俺はちっとも知らなかったんだ」
「俺も、お前があの娘と結婚するほどの仲だとは知らなかったよ。あの女、『会社の人にバレたら恥ずかしいから交際はナイショにしてね』なんて言っておきながら、実は二股かけてやがったとはな」
「二股じゃない。三股だよ。それにもう妻じゃない。去年、別れたんだ」
「えっ、なんだって?」
「久美は、ひどい女だったんだよ。とにかく贅沢三昧をするばかりで、家事の一つもしやしない。それでも惚れた弱味で我慢してたんだが、ある時、複数のカード会社から請求書が送られてきてな。総額にして五百万円」
「ご、五百万!」
「さすがの俺も怒ったよ。これは何だと怒鳴り付けたら、奴さん、なんて答えたと思う? 贅沢させてくれると思ったから、あんたみたいな冴えない男とでも結婚してやったんだ。有りがたく思えとさ。ブランド品だけならいざ知らず、ホストにも入れあげていたらしい」
「こんな金、払えるかと突っぱねてやったんだろうな?」
「ああ、もちろんさ。そしたら今度はお定まりのDVときたもんだ」
「それは、ひどいな」
俺は、佐野への怒りも忘れて身を乗り出していた。
「結局、別れてもらうために、家を売り払って、借金返してやった上に、身ぐるみ矧がされたってわけだ」
「あの新築の家をか。で、三股ってのは?」
「久美が再婚した相手、誰だと思う? 松木課長だよ」
「ああ、あの人事課のエロ親父か」
「古女房を放り出して、久美を後妻に入れてさ。そしたら、いきなり俺がリストラされたんだ。こう、すんなり事が運ぶところを見ると、久美は部長の愛人だったんじゃないかと思い当たったんだ」
「そうか、じゃあ、お前もプータロウなのか」
「その上、宿無しだよ。そこでな、叔父の旅館を手伝おうと思ってるんだ」
「ああ、昔、よく泊めてもらった、あの叔父さんの旅館かあ」
「うん、夫婦ともに体にガタがきてるらしい。是非とも跡を継いでくれとも言われてね」
「それで、城崎温泉行きなのか」
「どうだい、久保君。君も一緒に俺とやってくれないだろうか?」
「えっ、俺も? いいのか?」
本来なら俺が被るはずの厄災を肩代わりしてくれた。そう思うと佐野への恨みは瞬く間に消え去り、むしろ感謝の念さえ湧いていた。
――そうか、だから片道分のきっぷだけを送ってきたのか。
緑色のきっぷが、なぜか金色に輝いて見えた。
どうやら俺は、明日への切符も手に入れたようだ。