佳作「性分 あんどー春」
「で、結局どうしたいんだよ」
何度も同じ話を聞かされすっかり眉間にしわの寄った彼に「わからないから聞いてるの」と声を荒らげる。落ち着いた雰囲気のバーはいっそうしんと静まり返り、顔なじみのマスターも、カウンターの奥でしかめ面を浮かべているが、周囲に気を配っている余裕などなかった。
「別に浮気されたわけでもないんだろ?」
彼がうんざりした様子で頬杖をつく。
「あのひとがするわけないじゃない」
「殴られたりするとか?」
「超やさしい」
「かまってくれなかったり?」
「毎日メールくれる」
「何が不満なんだよ」
「不満なんてない」
きっぱり言い切った。本心からだ。誠実で、収入は安定しているし、料理だってうまい。お酒、ギャンブルの類は一切やらず、変に偉ぶるところもないし、両親とも良好な関係を築いてくれた。
「じゃあいいじゃねえかよ」彼が吐き捨てる。
「でも怖いの」
テーブルに突っ伏した。となりで苦笑する彼は、大げさにため息をついてマスターにお酒のおかわりを頼んでいる。
「こんなのおかしいもん」声を絞りだした。
「なにが」
「幸せすぎる」
「のろけかよ」彼が鼻で笑う。
「絶対あとから不幸なことがあるんだよ」
そうだ。そうに決まっている。こんな順調に話が進むなんておかしい。絶対に裏があるはずだ。
「だーかーらー」彼が頭をかきむしった。「ただのマリッジブルーだって」
「どうすればいいの?」すがる思いで訊いた。
「ほっとけば収まるよ」
「どれくらい?」
「知らねえよ」
「なんでわかんないのよ」
「おれ結婚したことないもん」
「バカ。役立たず」
「お前が勝手に呼び出したんだろ」
自分でもめちゃくちゃな言い分だと呆れた。でも感情をコントロールすることができず、とうとう涙が滋れてきてしまった。
こんなことなら付き合わなければよかった。プロポーズなんて受けるんじゃなかった。大事にしてくれる婚約者に申し訳ないと思いつつ、そんな黒い感情までわいてきてしまう。
「どっちにしろ、相談相手間違えてるよ」
ようやく鳴咽がおさまりかけたころ、彼が椅子を回転させてこちらに向き直った。
「ほかにこんなこと話せる友達いないんだもん」ふくれ面で言う。
「友達ときましたか」
「だって友達でしよ?」
「おれはそうは思ってないけど」
「何だと思ってんのよ」
「わかってんだろ?」
真剣な面持ちで見つめられ、たまらず目を逸らした。久々に会っても、やっぱりかっこいい。十九歳のとき、クラブでひと目惚れして猛アタックし、ようやく付き合えた男だ。だが容姿が整っているだけに寄って来る女の数も多く、さんざん浮気を繰り返す彼とは毎日ケンカが絶えなかった。そんな生活に疲弊し、一緒に住んでいたアパートを着の身着のまま飛び出したのが二年前だ。
その後、毎日泣き明かす姿を見かねた友人が紹介してくれたのが、役所に勤めるいまの彼だった。自暴自棄になっていた時期だったため、あまり深く考えず交際を始めてしまったのだが、その日の気分によってころころ態度を変える面倒くさい女を、彼は辛抱強く支えてくれた。結婚するならこういうひとがいいのだろうなと思った気持ちに嘘はないと、神に誓って言える。
「じゃあさ」グラスの残りをぐいつと飲み干した彼が、いたずらっぽく笑いながらのぞき込んできた。「おれと寄り戻してみる?」
「戻すわけないでしよ」
ひじで押し返した。本当に勝手な男だ。さんざんひとを振り回しておいて、別の相手との結婚を三ヵ月後に控えた今になって、こんなせりふ……。
「おれの方が幸せにできる自信あるけどな」
「バカじゃないの」
まともに働いてもいないくせに、どこからそんな自信がわいてくるのか。
「やっぱさ、おれってお前じゃなきやだめなのかも」
肩に手を回され、ぐっと抱き寄せられた。
「やめてよ」
抗おうとしているはずなのに、あまり力が入らなかった。