佳作「トゥールビヨン 富田順子」
鮨屋の暖簾をくぐると、既に相手の男性はカウンター席で待っていた。ふいにスマホが震える。私はさっとメールに目を通した。
しまった、もうばれてる……。
スマホをバッグにしまい、席に着くと社交辞令の笑顔で自己紹介をした。ところが彼は「あっどうも」と仏頂面でうなずくだけ。
なんだ、彼もそういうつもりか。小細工する必要なかったな。
おしぼりで手を拭くと左腕にはめたダボダボの腕時計を外した。一枚板のテーブルを傷つけない大人のたしなみだ。カウンターの上にハンカチを敷いてそっと時計を置く。鮨を握る白髪の大将は一瞬目尻の皺を深くした。
そもそも父親同士が強引に決めたこの見合い、私は単に予約三年待ちのこの鮨屋の名前に釣られただけ。いかにも彼氏の時計を借りてきた風を装い、鮨をたらふく食べたらさっさと帰って、見合いを断るつもりだった。
私が無言でヒラメを頬張っていると、彼はカウンターの一点を見つめていた。
「その時計、触ってもいいですか?」
ええ、どうぞ。の「え」で、彼は両掌でそっと腕時計を持ち上げた。
「すごい、トゥールビヨン、本物だ。これ、あなたの?」
私の腕はこんなに太くない。
「いいえ、借り物で。……父から」
仏頂面からの急変化に動揺し、彼の手の中を覗きながら半分正直に答えてしまった。父もこの時計を扱う時、大事な子猫を抱きあげるような優しい手つきをする。
「いいなぁ。親父のと同じモデルですが、親父は僕に触らせてくれませんから。」
父親同士の繋がりはこの時計にあるようだ。
彼は鮨をつまみながらトゥールビヨンについて語り始めた。ポケットで縦になる懐中時計は重力の影響でゼンマイがたわみ時計に誤差が生じてしまう。トゥールビヨンは時計技師ブレゲが発明した仕組みで、内部機構全体を回転させ重力の影響を分散、歯車が正確に動いて時計の誤差を解消させた。姿勢差だのガンギ車やテンプだの、難しい用語はさっぱりわからなかったが、懐中時計が主流だった時代、画期的な思いつきだったらしい。
「今は自動巻きもあるけど、この時計のように僕は断然手巻き派です。自分の手で竜頭を巻いたほうが時の重みを感じますから。なんて、実際は巻いたことないですけどね」
時計を手にしてからの彼は瞳をキラキラさせてよくしゃべる。おもちゃに夢中な小学生の男の子のようだ。不思議とウンチクを並べられて嫌じゃない。
父に似ているな、ふとそう思った。父はウンチクを語らないけど、毎晩優しい眼差しでウィスキーをちびちびしながら竜頭を巻く。その時の父の瞳と彼の瞳が同じに見えた。
「親父は僕が手にするのはまだ早いって言います。なにせ高級車一台分ですから」
吹き出しそうになるトロを何とかこらえたが、味蕾がわさびをとらえて涙目になった。
「そんなにするんですか? どうしよう、黙って持ち出しちゃった」
「それは大変だ。お父上は時計が見当たらなくて心配しているんじゃないですか」
慌ててバッグからスマホを取り出すと、メールの着信は十件を超えていた。父の心中を察すると、さらに涙目になった。
「じゃあ、ここを出たら僕も一緒に謝りに行きます。僕が一緒なら、お父上もそれほど怒らないでしょう。それにお父上ともトゥールビヨンの話がしたいですし」
ウキウキ話す彼に私はひたすら頭を下げた。
「でも、どうしてお父上の時計をはめて来たんですか?」
なぜだろう、彼氏のいるフリをしたかったから。いや……。強引に見合いを決めた父を困らせたかったのかな。大事にしている時計を持ち出して父の気を引きたかったのかな。
「なんとなく。思いつきで」
複雑な胸の内は割愛して答えた。
「そうですか、思いつきですか。ますます運命を感じるな」
彼は耳を真っ赤にしながら続けた。
「最初にハンカチを敷いたあの時計の扱い、あのしぐさでビビッときたんだ」
いつも父がそうしていたように、自然とあの時計を優しく扱ったから。そもそも私がこの時計をはめて来なければこんな展開にはならなかった。本当に運命の歯車がかみ合ったのかもしれない。彼と父が交わすトゥールビヨンの話を側で聞いていたいと思った。
「それにしても、予約三年待ちのこのお店、よく予約が取れましたね」
湯のみを手に彼に尋ねた。
「僕もそれは疑問に思ってました」
コホン、と大将が軽い咳払いをした。大将の目線の先にある棚の上には、同じモデルのトゥールビヨンの腕時計が鎮座していた。