佳作「死神の言い分 結瀬彩太」
足もとから影が消えて三日たった。本当は一週間前から、もしかしたらもっと前から影がなくなっていたのかもしれない。
これはなにかの警告だろうか。トイレの洗面台で顔を洗い鏡を覗き込む。心なしか頬がこけたような気がする。
トイレの扉が乱暴に叩かれ上司の黒木部長の声が聞こえてきた。
「これから皆でカラオケに行くんだけどあなたも行くでしょ?」
俺は手のひらをタイルにかざしてみた。やはりそこに影を作ることは出来なかった。
「すみません。最近、いくら寝ても疲れが取れないんです……」
「付き合い悪いわね。週末ぐらい遊びに出ないと一生奥さんなんて出来ないわよ」
大きなお世話だ。腹のなかで愚痴った刹那、俺は鏡の中に黒い影を見つけた。
「ひっ!」
「どうしたの?」
「何でもないです。気にしないで下さい」
眉間を押さえその場に座り込む。足もとの影が消えて以来、どこからか別の影があらわれ俺のことを追い回すようになった。
それは死神と言う表現が丁度いい気がする。死神の奴、今日はご丁寧に鏡の中で大鎌を握ってやがった。つまりそれは本格的な最後が近いと言うことなのだろう。
俺は会社帰りふらりと定食屋に入り鯖の味噌煮定食を頼んだ。これから死ぬかもしれないのに我ながらせこい最後の晩餐だと思う。
ふいに机の隅に置かれた保険の案内書を見つけ手に取った。
「生命保険のご案内……」
思わず吹き出した。生命保険か。女房も子供もいない俺が死んだら保険金の受取人はいったい誰になるのだろう。
田舎の両親だろうか。いやリビングに置いてある水槽のなかの出目金だったら面白い。
俺はお新香に箸を伸ばし短い人生を振り返ってみた。
学生時代は世界同時不況のせいで就職に忙しく恋愛どころではなかった。会社に入っても事あるごとに、セクハラ、パワハラ、コンプライアンスだと、ありがたい講習会を強要された。世の中が遊びづらい世界を作ってくれる。でも全ては言い訳だ。上手くやる奴は上手くやっている。
俺はお茶を飲み干し店を出ると、短い階段を上りきり駅のホームまでやってきた。どこからかあの嫌な視線を感じる。
俺は後ろを振り向いた。その時、不注意で他の客とぶつかってしまった。横目でホームに滑り込む電車が見える。
まぁ、こんなもんだよな。いまわの際の素直な感想だった。
だが俺は死なない。誰かに腕を引っ張られその場に尻もちをついたからだ。その目の前で電車は音を立てて止まり、開いた扉から沢山の乗客が乗り降りを始める。
「生命保険のパンフレットを握って自殺?」
俺を助けてくれたのは黒木部長だった。
「カラオケに行ったんじゃないんですか?」
「あなたのせいよ。三対三で遊びたいからって、あぶれちゃったの」
「そうですか。でも俺に構わないで下さい。巻き添えにしたくないんで」
「巻き添えって?」
「俺、死神に追われているんです」
視線を落とすと黒木部長は俺の足もとに影がないことに直ぐに気づいた。
「何で追われているの?」
「何で……?」
聞かれても答えが出ない。
「ふふ、理由がないならただの家出でしょ?」
「家出? だったら俺の影はどこにいるって言うんですか?」
「案外そのへんにいるんじゃない……。ほらあそこ」
黒木部長が向かい側のホームを指差すとベンチの前で死神が自慢の大鎌をマイク代りに握り締めダンスを踊っていた。
いやあれは大鎌じゃない。よく見るとトイレの床磨き用のデッキブラシじゃないか。
「なんであんなものを……」
俺の疑問を無視して死神は踊り狂うとロックスターみたいに足の横でブラシを蹴り上げ格好よくポーズを決めて見せた。
「あら影はあんなに歌いたがっているようだけど。今から私とデートする?」
「そ、そんな俺はあいつを捕まえに行かないといけないんで」
「ほっときゃいいのよ。家と会社の往復しかしないから、あいつはあなたの足もとに飽きちゃったんでしょ?」
そう言うと黒木部長は俺の腕に手を絡めてきた。本当にそうだろうか……。
俺がホームの向こうを見つめると死神の奴、デッキブラシを女代りに抱き寄せてチークダンスを踊り始めた。