選外佳作「美しい街 瀧なつ子」
きれいな街だった。
ゴミひとつ落ちていない。
住宅は秩序をもって並び、家々の庭の草花や街路樹は新芽の季節をむかえ、豊かにみずみずしく輝いている。
しかし、そういったことは桑原にとってはどうでもよく、思考の片隅にもにじまない。
急な転勤で、この街に越してきて三日目。
彼は漠然とした居心地の悪さだけを感じている。
桑原は、飲み干した缶コーヒーの空き缶を、カランと足元に転がした。
――コンビニが少ないよな。めんどくせぇ場所。
数歩歩いたところで、若い女の声が彼を呼び止めた。
振り向くと、二十歳過ぎくらいの女の子がちょっと恥じらいながら、桑原を上目づかいに見ている。
――うわ、かわいい。
とっさにいかがわしい想像をした彼に、彼女ははにかんで言った。
「これ、落としましたよ」
差し出して来たのは、彼が道に捨てたばかりの空き缶だった。
「は?えっと。あの、それもう入ってなくって」
「そうみたいですね」
女の子は、小動物のような愛らしさで缶を振って見せた。
「す、すいません……」
彼女の純粋さに押し負けるかたちで、桑原は空き缶を受け取った。
――チッ。なんなんだよ。うぜえ。
桑原はスーパーに着く前に、再度その缶を道に捨てた。
買い出しの帰り道、アレルギーのせいか鼻水が垂れた。
街頭でもらったばかりのポケットティッシュをあけ、ズズッと音をたて鼻をかんだ。ゴミと化したティッシュは、春と夏の間の風がさらって行った。
当然、彼は追わない。
「あ!落としましたよ!」
慌てたような男性の声が、後方で響いた。
――またかよ。なんなんだよ、この街は。
桑原は無視して、歩き去ろうとした。
が、男性は駆け足で彼に追いつき、肩を優しくたたいた。
そのやさしいたたき方が、桑原のイライラを増幅する。
仕方なく振り向くと、男性は彼にティッシュを渡しながら、微笑んだ。
「お見受けしない方ですが、越してこられたのですか」
「……ええ」
「もしかして、二丁目のマンションですか?どなたか越してこられたと聞きましたが」
――なんで、そんなことまで知ってんだよ。気持ちわりぃな。
桑原は曖昧に返事をして、家路についた。
翌日、新しい上司のはからいで出先から直帰していいことになった。桑原は、まだ明るい道路をがに股で闊歩していた。
――誰もいないよな。
ちょっとあたりを確認すると、かれはぷっと勢いよくガムを路上に吐いた。
――なんでいちいち人の目を気にしなきゃいけねぇんだ。嫌なとこに来ちまったな。
どこかで酒でも引っ掛けて帰りたかったが、あいにく居酒屋を見かけない。あったとしてもまだ開いていない時間だろう。
適当な店で酒を買って帰ろうと思った矢先、
「おじちゃーん。落ちたよ」
――……うそだろ……。
おそるおそる振り向くと、ランドセルをしょった少年が、桑原が吐き捨てたガムを持っていた。素手で。
桑原は咄嗟に走った。
が、身軽な少年には勝てず、背広に何かをぐいっと押し付けられる感覚がした。見なくても、何をされたか分かった。
非常に嫌な気分で帰宅した桑原は、背広を脱いで、あまり見ないようにしながらそのへんに投げた。持てるだけ買って来たビールと缶チューハイの中から適当に一本取り、一気に半分近く飲み込んだ。
――なんて奴らなんだ。なんて街なんだ。絶対に仕返ししてやる。おかしいだろ。人が捨てたゴミをいちいち……。
桑原は怒りともに、次第に深く酔っていった。
だから知らない。
玄関の郵便受けに、彼がポイ捨てしたたくさんのゴミが戻されていることを。
そして、さっき捨てた火のついたままの煙草が、その中に戻されることも。