第19回「小説でもどうぞ」佳作 おじいちゃん 七積ナツミ
第19回結果発表
課 題
もの食う話
※応募数276編
おじいちゃん
七積ナツミ
七積ナツミ
洗濯しようと、洗面台の下の物置棚を開けたら、食べかけのラーメンが置いてあってギョッ!とした。麺がぶわぶわにふやけて膨らんでいる。どんな事情があれば、ここにこのようにラーメンが食べ残されることになるのか。何故かは分からないが、誰かは分かる。食べ残しの冷えた、重たいラーメン鉢を持って、気配を探す。台所にいた。
「おじいちゃん!」
おじいは振り返りざま、茶碗に入れたお湯の中に醤油を注ぎ込んだ。
「え、ちょっ、何してるの、それ?」
まだ醤油を注いでいる。
「これかあ?」
やっと醤油差しを食卓の上に戻した。
「これはなあ。……味噌汁。ふぇへっへ」
ああ、スープのつもりだったのか、と妙に納得してしまう。醤油を飲むのかと、ゾッとしたが、醤油味のスープなら確かにおかしくはない。調理する習慣のない老人の知恵としては悪くないか。
「おじいちゃん、これ、おじいちゃんでしょ」
冷たい重たいラーメンを突き出す。
「あれ? そうかな? どうかなあ?」
「洗面所にあったよ、洗面所!」
「そうかあ、洗面所かあ……忘れたかなあ?」
「もう、ビックリするんだから! 捨てるよ」
「……いや、まだいける」
私からラーメン鉢を取り上げると、電子レンジの中にいれ、スタートをかけた。
「いやいやいやいや、むりむりむりむりむり」
「なんでえ」
「なんでじゃないよ、いいよ、作ってあげるから、新しいやつ!」
「後で食べようと思ったのに……」
まだぶつぶつ言っている。おじいにラーメンを作りながら、ふと気になった。不謹慎かもと思ったが、おじいと私の仲なら聞ける。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだ」
「あのさ、死ぬ前に食べるとしたら何食べたい?」
散々考えるだろうと思ったが、即答だった。
「食べたことないもの」
「え、それまずいものだったらつらいじゃん」
「食べたことないもん、食べたい」
何か深い意味でもあるんじゃないかと考えてみる。特には思い当たらない。おじいはすごい。九十歳を超えてなお、好奇心に満ちている。手元でおじいのラーメンが煮込みラーメンのようになってきた。ご老体にはちょうど良い。最後に空のラーメン鉢の中で卵を割って黄身と白身を箸でほぐしながら熱々の鍋の中に回し入れる。一瞬で細い溶き卵が麺に絡んで酸辣湯麺ができた。
「はい、できたよ」
「うわあ、うまそうだなあー」
目の前を湯気でもくもくにしながら、おじいの好奇心が少女漫画のようにキラキラしている。
「熱いから、こっちのお椀に移しながら少しずつ食べなね」
お雑煮用の大きな空のお椀とレンゲを渡す。
この際、前々から気になっていたことを聞いてみよう。
「ねえねえ、おじいちゃん、あのさ。気になることがあるんだけどさ」
「なんだ」
「おじいちゃんはさ、九十年も生きて来て、私が想像するに、体は歳を取ると自由が利かなくて、しんどいことが増えそうだけど、気持ちはさ、若い時から変わらず、そのまんまの自分が体の中にいるんじゃないかって思うんだけど、どう?」
おじいは啜った酸辣湯を満足気に飲み込んでから、水を一口飲んで言った。やはり即答だった。
「変わる」
え、変わるの! おじいは気持ちもすっかり変わって今、そこにいるの! おじいはニヤッとしてから、嬉しそうにずっと酸辣湯を啜っている。
「そうなんだ、変わるんだ。そうかあ。想像できないなあ……。ねえ、おじいちゃん」
「なんだ」
「もう一つ聞きたいんだけど」
「なんだ」
「昨日さ、私がイライラして、おじいちゃんのこと怒鳴りつけたの、覚えてる?」
「忘れた」
「……ごめんなさい」
おじいの箸が止まる。ちょっと驚いた顔をしている。
「何でも、すうぐに忘れちゃうんだからあ。なあんにも、気にするなあ」
おじいは俯いてまた、ラーメンを啜る。ラーメン鉢には残りが後少し。最後は皿ごと持ち上げて汁ごと全部口の中に注ぎ込む。
「このラーメン、うまいなあ。初めて食べた」
顔を上げて私を見て、おじいは笑う。私の嫌なところをおじいが全部食べてくれたみたいだった。そういうやさしい顔をしていた。
(了)