第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 夜はこれから 木戸秋波留紀
第19回結果発表
課 題
もの食う話
※応募数276編
選外佳作
夜はこれから 木戸秋波留紀
夜はこれから 木戸秋波留紀
わたしと彼は、山の麓にある焼き鳥屋に行った。そこを見つけたのは彼。ある時、ひとりで付近の酒場を回れるだけ回ってみる、ということをしたらしい。その時、最後の一軒として入ったのがこの焼き鳥屋である。看板はなく、店の名前は分からない。彼は、店の前を漂う焼けた炭の香りに気付き、酔いの勢いもあって中に入ってみたのだという。詳しいことは、行ってから自分で見ればいい、と彼は言った。わたしは酒場や居酒屋が好きではない。騒々しい場所が嫌なのである。そのことを彼に伝えると「大丈夫さ。あんたの好きそうな場所だったから」と言った。
店の前に来たのは夜の九時だった。彼は十時に入って十二時までいて何も言われなかったそうなので、その時間まではいることができるだろうと言った。
「あと、この時間帯が一番人が少なかった」
「何人いた?」
「俺ひとりだった」
我々は中へ入った。
店は黒に近い茶色の木で造られており、カウンター席しかなかった。わたしと彼以外に、客は誰もいなかった。主人もいなかった。
「どうしたのかな」わたしは言った。
「心配するな。俺が以前来た時も、主人はいなかった。かなり不安だったが、少ししたら来る。第一、店の扉が開いているということは、店はやっている、ということだろ?」
彼の笑顔と自信を信じてみることにして、わたしは壁に張り付けられた「お品書き」を眺めることにした。「皮」や「砂肝」という文字が、白い短冊に、非常に丁寧に筆で書かれていた。
「綺麗だね。字」
「確かに、言われてみるとそうだな」
「書道でもやっているのかね。主人は」
「だろうな」
店の奥から主人が現れて、わたしは少し驚いた。主人は女性で、かなり若かった。おそらく、我々より年齢は上だが、それほど離れてはいないだろう。
「お待たせしてすみません」女主人は言った。
「いえいえ。注文、大丈夫ですか?」
「はい。ですが、これから火をつけるので、時間がかかってしまうのですが……」
彼はわたしの方を見た。彼もわたしも、このあとに待っているものなど、何もなかった。わたしはうなずいた。
「俺たちは大丈夫です。時間しかありませんから」
女主人は微笑んで、「ありがとうございます」と言った。女主人の声は透き通っており、しかしはっきりと耳に届くトーンだった。
「ご注文は何になされますか?」
透明な声で女主人は言った。
「俺はかしわと砂肝、どちらも塩で。それと生ビールを。あんたは?」
「わたしは、皮とぼんじり、どちらもタレにしましょう。それと烏龍茶……いや、日本酒を下さい」
「ありがとうございます。しばらくお待ちくださいね」
女主人はそう言って、マッチで炭に火をつけた。そして、紙張りのうちわで炭を仰いだ。わたしは小さな声で「いいところだ」と彼に言った。騒々しさとは無縁の場所だった。客はおらず、女主人は穏やかな表情で鶏肉を焼きはじめた。黄昏の色をした明かりは、黒い木の内装と調和して、静かで、落ち着いた雰囲気を出していた。
また、店の中に飾りや張り紙(お品書きを除く)が全くなかったこと、音楽やラジオが一切鳴っていないこと(そもそも、オーディオ機器が存在しない)という部分も「いいところ」である要因だった。彼はこちらを向くと「だろ?」と目で合図した。おそらく、彼もこの店を気に入っている。しかし、わたしと違って、女主人がいるからということがその理由ではないだろうか。彼はずっと、女主人が鶏肉を焼いている姿を見守っていた。
焼き鳥が来た。彼は乾杯をしようと言った。
「何に?」
「そうだな……この店と」彼は女主人をちらと見た。女主人は炭をじっと見ていた。
「まさか、酔っているわけではないよね?」
「そう。
わたしは小さく溜め息をついて彼のグラスに
「いいところだ」
彼が反応した。
「だろう?……ところでさ」
彼はわたしの頼んだ焼き鳥を見て言った。
「あんたって、焼き鳥はいつもタレだよな」
「タレの方が好きなのだよ」
「なぜだ? 塩の方がいいと思うが。酒と合うのは塩だぜ」
「たしかにそうかもしれない。でも、どちらか選べと言われたら、わたしはタレを選ぶね」
わたしは猪口の日本酒を飲み干し、新しく注いで続けた。
「別に、塩が嫌いなわけではない。しかし、塩の焼き鳥はどこでも食べることができるじゃないか。ああ、何もどこで食べても同じだと言っているわけではないのだよ。ただ、タレの方が、その店の個性が出ていると思うのだよ」
「でも、俺は塩一択だな」
その時、炭をじっと見ていた女主人が、囁くような声でつぶやいた。
「私は……タレがいいかな……」
我々は女主人の方を見た。彼は言った。
「すみません、かしわとぼんじりをお願いします。――タレで」
「塩一択ではなかったのかい?」
わたしは楽しくなってきた。
(了)