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第19回「小説でもどうぞ」選外佳作 蕎麦屋での一件 瀬島純樹

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第19回結果発表
課 題

もの食う話

※応募数276編
選外佳作 
蕎麦屋での一件 瀬島純樹

 たまたま通りかかって、見つけたんですよ。うまそうな蕎麦屋を。年季の入った暖簾を見たときには、蕎麦でも喰っていこうかと思いましてね。
 暖簾をくぐって、店に一歩入ってみると、中はずいぶん古い造りで、こじんまりとしていましたが、柱も壁も黒ずんで、蕎麦屋としていい感じの店でした。
 ふっと顔をあげると、壁に張り出されたお品書きが飛び込んできました。
 蕎麦の品目が並んでいる最後尾に、丼の字が並んでいました。その中でも、心を射抜いたのはカツ丼。わたし、大好物なんです。いやあ、これと目が合ったら、もうたまらなく食べたくなりました。
 不思議なもんで、さっきまでは小腹を満たそうかと思ったぐらいだったのに、好物と巡り合った途端、急に空腹を覚えました。昼飯にはまだ間がありましたが、まるで朝から何にも食べてないみたいに腹が鳴った気がしました。
 蕎麦屋の出汁で作ったカツ丼は格別っていうじゃないですか。注文する前から、もう口の中はカツ丼を待ち受けて、受け皿の舌も準備万端整っていました。
 ちょうど時間帯から言っても、わたしが一番の客だったかもしれません。奥から出てきたのは年配のおかみさんでした。なんて言うんでしょうか、なんだか不安そうな顔をしていましたが、こっちは急いでいましたから、かまわずカツ丼を頼みました。
 おかみさんは、カツ丼一丁って、厨房に声を掛けました。奥からはなんの返事もなかったんですが、厨房に初老の男の姿が見えると、物音がしだしました。
 思わず想像しましたよ。返事もしない蕎麦屋のおやじですよ。大方、むずかしい顔して無愛想で、見た感じはいかつい。まあそんな職人肌のおやじだからこそ、とびきりうまい出汁を取るんだってね。
 おかみさんは、持ってきた湯呑を机の上に置くと、今度は心配そうな顔をしているんですよ。
 どうしたんだろうと気になり、もしかしたら、おかみさんは怒っているのかもしれないと思いました。そうですよ、たしかに蕎麦屋の暖簾をくぐった一番客が、真っ先に注文したのが、蕎麦じゃあなくて、カツ丼ですからね。
 そばつゆのために取ったこだわりの出汁が、一見客のカツ丼に、真っ先に使われるんですから、けっして愉快じゃない。わかります。
 そう思い当たると、そうか、蕎麦も一緒に頼んでおけばよかった、カツ丼の字に有頂天になって、余裕を失っていた、とを後悔しました。
 でも、今、この間合いで、機嫌とりみたいに慌てて蕎麦を追加注文すれば足元を見られますよ。こっちにも、もの食う者の矜持がありますからね。ここはぐっと堪えて、まずはかつ丼の登場を待ちました。
 でも、はじめての店ですよ。ひょっとして、腹いせに、とんでもないものを出して来たらどうしようか。なあに、口にして不味ければ、お金を置いて、さっさと席を立てばいいと度胸を決めました。まさにその時、匂いとともに、おかみさんが、盆に丼ぶりをのせて現れました。
 一口食べて、すべての疑念は吹っ飛びました。こりゃあうまい。
 カツの衣ぐあい、肉の厚さ、卵の蒸しかげん、何もかもが絶妙で申し分なし。
 味の濃さ、米粒の固さに分量まで、ちょうどいいんです。なぜだろうというくらい、わたしの欲している味にぴったりでした。
 おかみさん、美味しいよ、と叫んだのは覚えていますが、途端に腹が痛くなって、気を失ったと思います。そして、気が付いたら、このベッドの上でした。
「あの蕎麦屋さんが、この病院のすぐ裏で、蕎麦屋の奥さんがすぐに対応してくれたので、命拾いをしたのですよ。わかってますか」と先生はあきれ顔で言った。
「はい、わかってますとも。先生から話を聞くまでは、罰当たりにも、やられたって思っていましたからね」
「蕎麦屋さん、カツは量を減らして、味付けも控えめにしていたそうですよ。だって、あなたからは、消毒液の匂いがして、わけがありそうと思ったそうです」
「そうですか、あの蕎麦屋さんでよかった。今度はカツ丼の小盛にします」
「だめですよ、だいたい、この病院を退院して、その足でカツ丼を食べるなんて、とんでもない話です。あなたは胃がないのですからね。そんなに好物なら、流動食のカツ丼風味がありますが、試してみますか?」
(了)