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第20回「小説でもどうぞ」選外佳作 ぼくちゃん 渡鳥うき

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第20回結果発表
課 題

お仕事

※応募数276編
選外佳作 
ぼくちゃん 渡鳥うき

 妻の様子がおかしいと感じ始めたのは先週ぐらいからだ。いつもぼんやりしていて、家事や用事をたびたび忘れるようになった。雨が降ってきたのにベランダの洗濯物を取り込んでなかったり、カレーを作ったのにご飯を炊き忘れていたりする。
「どうしたの?」
 体調でも悪いのかと最初は心配で尋ねていた。
「ああ、ごめんなさい。うっかりしてたの。別に病気とかじゃないから大丈夫。ごめんね」
 そもそも少しおっとりしている性格なので本当にうっかりなんだろうと思っていた。激怒するほどのミスじゃない。洗濯物は乾燥機に入れればいいし、最近の炊飯器は早炊き機能も内蔵されていて十五分でも炊ける。全部が許容範囲のことだった。
 だがそれは日ごとに増えていった。会社から帰ってきても朝食の皿がテーブルに置いたまま。取り込むどころかパジャマの入った洗濯機も回してもいない。溜まってくる埃。出席しなければならないマンションの自治会の会議もすっぽかす。
 こちらがフォローできるものならなんとかなるが、マンションの連絡事項を忘れて、住人に迷惑を掛けるようなことがあったら大変である。自治会長からの電話に謝罪したあと、ソファーで俯く妻の横に腰掛けた。
「一体君はどうしたんだ。ここ最近おかしいよ。うっかりのレベルじゃない。なんにもやってないじゃないか。日中家にもいないらしいし、どこで何をしてるんだよ」
 責めたくなかったが、つい声が大きくなっていた。いつもいつも心ここにあらず。謎の外出。まさか浮気でもしてるんじゃないかと、思いたくもない猜疑心までもが膨らんでくる。
「買い物に行ってただけよ」
 妻は俯きながらポツリと云った。
「買い物ってどこまで?」
「すぐそこよ。ピーターズ」
 妻が言うピーターズは家から五分ほどの場所にあるディスカウントストアだった。食料品から日用品、洋服も薬もペット用品もなんでも揃っていて、この一ヶ所だけで生活に必要なものはほぼ手に入る便利さから、マンションの住人はみな利用していた。当然我が家も週に二度は必ず買い物に来ていた。広いし安いしなにより近いからだ。
「買い物ってなにをさ。冷蔵庫の中は空っぽだし、柔軟剤も切れてる。なにを買うために行ってるんだよ」
 すると妻はふっと顔を上げ、「ぼくちゃんに会いに行ってるのよ」と、どこでもないところに目線を泳がせながらため息をついた。
「ぼくちゃん?」
「そうよ。ぼくちゃん。あなたも知ってるでしょ。ピーターズの中をぐるーって順番に巡回してるあの子。あの子に会いに行ってるの。だって誰も褒めてあげないんだもの。あんなに一生懸命、お仕事してるのに。だから私が側で見守ってあげてるのよ」
 僕は妻の表情から正気を探した。真実を聞いても受け入れられなかった。
 妻の言う「ぼくちゃん」はピーターズ内の空気を清浄する移動式のロボットだった。高さは八十センチぐらい。卵のような丸みのあるフィルム。感知するセンサーが正面にふたつ付いており、それが目みたいに見える。
 このご時世なので導入された空気清浄機である。ジーッと真っすぐ前進してくるロボットに子供たちも興味津々。喋ったりはしないが、障害物があれば停止し、換気が必要な場所ではセンサーが赤から緑になるまで止まる。
「可愛いわね」
 最初見掛けたときに妻は言い、しばらくすると、「この子に名前付けたのよ。ぼくちゃんっていうの」とくすくす笑った。我が家には子供がいないので、あんなものでも可愛く思えるのだろうとたいして気にも留めなかった。だが言われてみれば妻はピーターズに行くと、「ぼくちゃんいるかしら」と探していた。充電中で止まってると、「休憩中なのね」と明らかにがっかりする。
 はっきり言っておかしい。なにがあったんだ。出張が多くて家をよく空けるから寂しかったのか。子供はもう少し先でいいよなと軽く言ったことに傷付いているのか。そう考えながら、翌日会社に行くと、昼過ぎにマンションの会長から電話があった。
「奥さんが大変です」
 急いで戻ると妻はピーターズにいた。そして泣いていた。彼女の前には障害物がいるから進めず止まっている「ぼくちゃん」がいた。
「ぼくちゃん、どうしてそんなに怖がるの? 私はあなたの味方よ。こっちに来ていいのよ」
 二人の周りには人だかりができていた。従業員が促しても妻は動かない。「ぼくちゃん」のセンサーはずっと赤い光を点滅させていた。
 それは空気が汚れてるサイン。妻の発する異様な気を感知しているかららしかった。
(了)