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第23回「小説でもどうぞ」選外佳作 坂の上の信号機 羊さん

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作文・エッセイ
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結果発表
第23回結果発表
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※応募数267編
選外佳作 
坂の上の信号機 羊さん

 ちょっとお散歩してみようかな。
 王子から神楽坂に向かう南北線の中で、咲はふと思った。今日は大学の友達の千秋ちゃんの家で七時から飲み会だ。今はまだ六時三十分。ひとつ前の飯田橋で降りて歩いていこうと思ったのだった。
 散歩ではなく、お散歩。
 そんな気張ったものではなく、でもぷらんぷらんしているわけでもなく、慌ただしい生活がちょっとスローになる。日常から少しだけ足を浮かせるかんじ。しかも目的地にもちょうどいい時間に着くように調整できる。だからお散歩なのだ。ここ一年、咲はそんなお散歩をときどき発動させていた。
 よしっ、と飯田橋で南北線を降り、構内の地図を頼りに出口を探して神楽坂の通りへ出ていった。
 地上に出た瞬間、春にしようか夏にしようかとお天道様が決めかねているような空気がふわっと流れ込んできた。
 そうそう、これこれ。これがいい。
 千秋ちゃんの家は坂の上にあると言っていた。電車の中で見たマップではここから徒歩二十分だった。ゆっくり行っても余裕はある。
 左を見ると、大きな信号があって青になっていた。横でスタバがスンとしたかんじで建っている。でも、新宿や渋谷と違って小綺麗なスン、だ。こんな雰囲気の中でバイトできたら楽しそうだなぁ。大学に入って三年目、友達に紹介されて始めた新宿のカフェのバイトも三年目になった。居心地も悪くないからなんとなく続けてきたけどなんだかな。そろそろ飽きてきた。なんだか最近ずっとこんなかんじ。
 授業、バイト、友達との遊び、飲み会、上京して始めた一人暮らし、だいたいは過ごし方を覚えたし、楽しむこともできてきた。でも、モヤっとすることがだんだん多くなってきた気がする。ときどき、急激に不安になる。まだ大人ではないけれども、無邪気でいられる子供でもない。大人と子供との間隙で右往左往しているような感覚。
 坂を上っていくといろんな人と交わっていく。老夫婦、若いカップル、ワンちゃんを連れた女の人、観光客ではないかんじの外国人、楽器を持った数人組、駅を目指してカツカツ歩く青年。こんなに人がいるのに、でもみんなそれぞれ輪郭を持っているように感じられて、その新鮮さにびっくりした。そうやってスローになっていく生活の中に身を任せながら歩いていくと交差点があって赤信号にぶつかった。
 この坂、長いな。
 ふっと息をついてみると、意外と疲れていることに気付く。まわりを見るといつの間にか人が少なっていた。みんなどこ行ったんだろうな。
 横断歩道を渡ると、一気に生活の香りがじわっと流れ込んできた。まるで知らない街に来たみたい。まあ来たことないからそうなんだけど。横を小学生ぐらいの姉妹が通り去って、そのあとをお父さんとお母さんがあたたかい目で追っていく。
 大人だなぁ。地に足がついている。咲は、自分がこの場を歩いていることがひどく不相応に思えた。
 でも、
 でもね、
 でもおかしなことに気分は悪くないし、なんならわくわくしてきているのだ。
 ぽつぽつと街灯が点いていく。右手にお肉屋さんがあっておじさんが何か買っている。かと思ったら左手にバーの看板が出ていて、その奥にはマンションがあって、そのまた奥でクリーニング屋さんに何人か並んでいた。心なしか、足取りもふわっとしていたものがしっかりしてきた。楽しい。あたりがだんだん暗くなっていく中で、逆に咲の心に何かひとつほのかな新しい息が吹き込まれた気がした。咲は夢中になって足を進めていった。
 だんだん勾配もなだらかになっていく。坂も上まで来たようだ。目の前に続く道にはもう人もほとんどおらず、奥で赤い灯りが小さく光っていて、それが青に切り替わるのが見えた。
 この先行ったらもうお散歩じゃない。散歩だ。
 そこに足を踏み込んでみたら面白そうだなと思ったちょうどそのとき、ピロン、とスマホが鳴った。  
 千秋ちゃんからのメッセージだ。
「いまどこー?」
 あ、やば、もう七時二分。「あと二分で着くよ」と送って急いでマップを開く。ここ左に曲がってすぐまた右か。
 青い灯りが黄色になり、赤になる。暗闇の中で猫の喧嘩がはじまった。
 咲はそんなことに気付く間もなく、スマホを片手に小道に入っていった。
(了)