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第25回「小説でもどうぞ」選外佳作 優しい世界 河音直歩

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第25回結果発表
課 題

幽霊

※応募数304編
選外佳作 
優しい世界 河音直歩

 そいつに殴られると体はばらばらに千切れ、小さい粉になって、最後は風に吹かれるようにどこかへ消えてしまうのだと、金子は言った。ただ、行く先が天か地獄か、わからないということだった。
 上へ確実に昇って行けるのであれば、誰だって喜んで、そいつに頬を出すだろう。でももし地獄なら、最悪だ。永遠に死を繰り返す苦痛なんて、考えるだけでぞっとする。
 昨日の金子との会話を思い出しながら、僕は自宅の壁を二枚続けて通り抜けて進んでいく。今年の九月もやっぱり蒸し暑い。
 ゼミの飲み会の帰りにトラックにかれ、幽霊になって半年が経つ。訳も分からずに宙に浮かんだまま、家族や友人が嗚咽するほど泣くのを見て、僕もぼろぼろ泣いた。けれども、涙は床に落ちないし、透明な僕の体は誰にも見えなくなっていた。母さんと父さん、それに生意気な妹は今でも、仏壇の前で、時々泣く。たける、と僕の名前を呼ぶ。僕も生前に比べて、かなり涙もろくなった。
 一度死んだ人は、心の痛みに敏感だ。だから幽霊はみんな優しい。通りすがりのおばあさんの幽霊が、死んだばかりの僕にそう教えてくれた。実際、僕は死んでから、一度も嫌な思いをしたことがない。 
 壁を抜けた先のリビングに、大好きな愛犬の豆太郎が寝そべっている。テレビの後ろから部屋に入ると、豆太郎はぱっと跳ね起きて、僕を見つめ、嬉しそうに尻尾を振った。
 豆太郎のすぐ隣には、金子が寝そべっていた。洗濯かごを抱えた母さんが後ろの扉から出てきて、透明な金子を踏んでベランダへ出て行った。
「お前また来てるのかよ」僕が呆れると、
「当たり前だろ。俺たちを見て喜んでくれるなんて、可愛くてしょうがないだろ。大体お前が死ぬ前から、俺は毎日豆太郎に会いに来て、こうしてたんだからな」
 金子は無職のおじさんだった。髪の毛はだいぶ薄くて、額が広い。僕が死んだあと、ここで知り合って、すぐ友だちになった。病気で死んだらしいが、詳しいことは知らない。
「そうだ、健。昨日話したあいつの名前、思い出しだぞ。坂田っていうらしい。坂田、今隅田川あたりで幽霊を殴っているらしい」
「なんだよ、すぐそばじゃん」
「まあ、やられてどっち行くかわからないしな。でも奴を何回か間近に見た女の子が、天に行けるっぽい、って言ってたんだよ」
 金子はそう取り留めもないことを言って、こちらの反応を窺っていた。僕は下手な賭けをしたくないし、まだ豆太郎に会っていたいので、黙っていた。
「俺、殴られてもいいと思っててさ」
「まじかよ」
「二十年幽霊やって、いろんなところに遊びに行けたし、お前っていう友だちもできたし、もうこの世に未練ないからな。今なら天に昇ってさ、記憶を消されて生まれ変わってもいいかなって思うわけ」
 金子は豆太郎の背中を撫でながら、ぽつりと言う。ある日突然訪れるらしい成仏を待つのは、人によってはしんどいことだ。
「じゃあ行こう。一緒に行ってやるから」
 僕は金子を立ち上がらせた。

 川沿いの公園に着くと、坂田はすぐこちらに気が付いて、ベンチから立ち上がった。細身で眼鏡をかけた、中学生の少年だった。
「もう誰かを殴るのは嫌なんです」
 坂田の拳には包帯がぐるぐると巻かれていた。ある日幽霊が見えるようになり、触れられるようになり、試しに一人叩いてみたら、そいつは消えてしまい、見ていた幽霊たちが噂を広めたということだった。毎日、殴ってくれと頼まれ、ストレス発散も兼ねて要望に応えていたが、手を酷使したために、痛みが引かないらしい。とりあえず僕たちは、周りにいた野次馬の幽霊を追っ払った。
「どうしてもだめか」
 金子はうなだれて、坂田の隣の宙に座った。
「僕が死んだらどうなるか、教えてくれるのなら、一回殴ってもいいですよ」
 坂田はじっと金子を見下ろした。
「こんなに人を殴って、僕は地獄行きですか」
 金子は嘘をつくときの、酸っぱいものを食べたような顔になって言った。
「地獄なんて、ない」
 坂田はぱっと立ちあがり、嬉しそうな顔で拳を握った。金子は俺の手を掴んでいた。金子も僕も殴られた。
 僕は痛みの中で体が千切れて行くのを感じた。坂田の粒子が天に昇って行くのを追いかけるように、僕も浮かび上がった。
 目を開けると、また豆太郎の部屋だった。
「ただの気絶だったな。ここに戻れてラッキーだな」
 寝そべっている金子が笑った。この優しい世界を愛おしく思いながら、僕も笑った。
(了)