第27回「小説でもどうぞ」佳作 白衣の男 今村洋平
第27回結果発表
課 題
病
※応募数314編
白衣の男
今村洋平
今村洋平
抜けるような青空の下、私は眼前の海を見つめていた。崖の上で両手を広げ、深呼吸をした。こんな穏やかな気持ちになれたのはいつ以来だろうか、ゆっくり鼻から息を吸ってゆっくり口から吐いた。目の前に広がる海原に心が浄化される。無理やり仕事を休んで来た甲斐があった。
崖の下から私を呼ぶ声が聞こえた。恐る恐る顔を覗かせると、妻が立ち泳ぎをしながら、私に手を降っていた。彼女の笑顔を見るのも久しぶりだ。彼女には随分と苦労を掛けた。
私を献身的に支えてくれた。
「ねえ、早くこっち来たら? 気持ちいいわよ」
妻は立ち泳ぎをしながら長い髪を両手でまとめていた。
私だって早くそっちに行きたい、けれども駄目なんだ、体がもう言うことを聞いてくれない。手は震え、妻の水着姿も
「トビオリタラ、ラクニナルカラ」
耳を塞いでもその声は聞こえてきた。
そうだ、楽になれるんだ、俺は何を勘違いしていたんだ。簡単なことなんだ。
私は両手を広げ、瞳を閉じた。
大きく息を吸って眼下に飛び込もうとした瞬間に、誰かが私の体を後ろから羽交い締めにした。
「駄目ですよ! 早まっちゃ」
勢いに負けて私は後ろに倒れ込んだ。白衣を身につけた若い男が、息を弾ませていた。
「ちょっと、何するんですか!」
「それはこっちの台詞です! 芹沢さん、急に施設から飛び出すから…」
「施設……私が? それに芹沢って誰です!」
「もう自分の名前も覚えてないか……」
白衣の男は頭を抱えた。
「さあ、私と一緒に戻りますよ」
「何を言うんだ! 私の名前は佐藤、ごくありふれた名前だ、それに今は休暇で家内と一緒に旅行の最中なんだ」
「はい、はい、前もその話してましたよ」
聞き分けのない子供を相手にするような白衣の男の態度が気にくわなかった。
「第一、その奥様はどこにいるんですか?」
「馬鹿を言うな、すぐそこにいるだろ」
私は崖の下を指さしたが、そこに家内の姿はなかった。
「あれ? さっきまですぐそこに……」
「芹沢さん、取りあえず立ちましょう」
白衣の男は私の脇の下に手を入れ、私を立ち上がらせようと必死だった。私は頑なに拒んだ。
「悪いようにはしませんから、さ、芹沢さん早く立って」
もう私に関わらないでほしい、と私は白衣の男の手を強く叩いた。
男は黙って私の目を見つめていた。
「俺の力が及ばなかったか……」
白衣の男は、黙ってその場に座り込んだ。
林の向こうから紺色のスクラブを着た男、数人が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「すいませんでした、とんだご迷惑を」
「状況が読み込めてないですが……」
私は目が点だった。
「この患者が、施設を抜け出しまして、ずっと探していたんです」
「患者? この人は私を患者だと思っているようでしたが」
「芹沢と呼ばれませんでしたか?」
「ええ、何度も」
「彼は元々精神科医でした、昔、芹沢という患者を診ていたらしいのですが、その患者が自ら命を絶ったらしく……」
白衣の男は虚空を見つめたまま、男たちに取り囲まれていた。
「当時の記憶が、たまに戻るみたいで、それでまあ、このような……」
「そうでしたか」
白衣の男は、両腕を抱えられたまま林の中へ消えていった。
私は白衣の男の背中を最後まで見ていた。
一人の人間を救おうとした男の末路に
「何かあったの?」
振り向くと、タオルで髪を拭いている妻の姿があった。
「君だけ優雅だな、どこに行ってたんだ?」
「感じ悪い言い方ね、あなたがいつまで経っても降りてこないから泳いでたの」
「俺が極度の高所恐怖症なのは、知ってるよな」
「だから、それを克服するって、今日来たんじゃない、なんでこの高さが降りられないのよ、情けないわね、さっさと降りて」
どん、と妻に背中を押され、たった二メートルの崖を落ちていった。
私のような引っ込み思案には妻のような荒療治がちょうど良い。
(了)