第28回「小説でもどうぞ」佳作 誓いの日 白浜釘之
第28回結果発表
課 題
誓い
※応募数272編
誓いの日
白浜釘之
白浜釘之
意外なことに、その店はまだ存在していた。
昼間は喫茶店、夜には酒類も提供するスナックのようなその店は学生街にあるということもあり、我々のようなちょっと他の学生たちとは差別化を図りたい人種にはぴったりの店だった。
「お久しぶりですね」
そんな店の定番である、物静かで控えめだが毅然とした態度で内面に強固なプライドを秘めているような態度のマスターは、十年ぶりに訪れたかつての常連客を、まるで三日ぶりに訪れたかのような態度で接してくれた。
「覚えてくれていたんですね」
「もちろん。今日がちょうど十年目の誓いの日ですからね」
私は自分の存在を覚えていてくれたことを言ったのだが、彼はちゃんと私たちの誓いのことまで覚えていてくれた。そのことに礼を言うと、
「証人として立ち会ったのですから、当然のことです」
マスターはにっこりと微笑んでいつものように……といっても十年ぶりなのだが……濃い目のダージリンを
「十年後にここで会いましょう」
彼女はそう言って笑顔で握手を求めてきた。
彼女と出会ったのはとあるつまらない講義が行われていた教室だった。必須科目だったが、興味もない教科だったので隠れて文庫本を読んでいた私の横で、熱心にノートをとっている女子学生がいた。「真面目だね」と声を掛けると、彼女はペロっと舌を出して自分が書き込んでいたノートを見せてくれた。
そこには今行われている授業とは全く関係のない化学式がびっしりと書かれていた。
それから私たちは付き合い始めた。
全てにおいて正反対だった二人だったが、だからこそ新しい発見があったり、意見の食い違いも納得の行くまで議論できたり有意義で楽しい時間を過ごすことができた。
だが、二人ともどうしても譲れないものがあった。お互いの進路についてだった。
世界中を駆け回るルポライターを目指していた私は海外勤務の多い通信社に就職が決まり、彼女は研究論文が評価されそのまま大学の研究室に残ることが決まったのだ。
仕事を取るか恋を取るか……私たちはお互い前者を取ることで珍しく意見が一致した。
「未練を残さないようにお互いに連絡を取ることはしない。でも十年後にもう一度だけここで再会しよう。その時にお互いまだ独身だったらまた交際を再開しよう」
そう言って私たちはちょうど十年前、マスターの前で握手をして別れたのだった。
十年という月日はあっという間に過ぎていった。私は世界中の紛争地域から戦争の悲惨さを訴え、彼女は大学の研究室で一人でも多くの人が健康でいられるように新しい薬品の研究に没頭した。
全ては順調に進んでいるように見えた。
しかし、理想と現実は必ずしも一致するわけではないことを私たちは知ることになった。
私の記事は世界中に配信されたが、平和を希求する主張は切り捨てられ、ただ戦争被害の様子だけがセンセーショナルに伝えられるだけだった。一方、彼女の研究成果は大学教授たちの学内での権力闘争の道具にさせられ、やがて彼女の研究は指導者である某教授の名前で学会に発表されてしまった。
そのことで彼女がすべてを捨てて研究室を去ることになったのだと、私はかつての友人から聞かされたが、だからと言って私が彼女にしてあげられることは何もなかった。
そして私もある紛争地帯での取材中に大規模な事故に巻き込まれ、ルポライターとしての活動を断念せざるを得なくなってしまった。
「早かったのね」
私が苦い感傷に浸っていると、重い扉を開けて彼女が入ってきた。
「何しろ暇になっちゃったからね」
思ったよりも明るい様子に、私も嬉しくなってつい軽口を叩いてしまう。
「それはお互い様でしょう?」
彼女も屈託なく笑う。その笑顔に私は思わず泣きそうな気分になってしまう。
「それに独身なのもお互い様だし、またお付き合いを始めましょうよ」
「そうだね。これから時間は無限にあるんだからね」
彼女の言葉に私が頷くと、マスターは「二人の前途に、これは私からの奢りです」と、とっておきのバーボンを開けてくれた。
「私も生きている間にはこれを飲むことができませんでしたからね」
そう言って彼はバーボンを飲み干す。五年前に癌で亡くなった……私たちよりもずっと前にこちらに来ていた……彼は、我々のこの世界での再会を一番喜んでいるように見えた。
(了)