第28回「小説でもどうぞ」選外佳作 指輪の誓い 穴木隆象
第28回結果発表
課 題
誓い
※応募数272編
選外佳作
指輪の誓い 穴木隆象
指輪の誓い 穴木隆象
厚かましくも葬儀の直後に「四十九日の法要が終わったころに改めてお伺いに参ります」と伝えたのだが、その後、電話もメールも繋がらなかったので、私は直接に故先輩教授宅に未亡人を訪ねた。未亡人は私が心配したとおり、教授が留学時代に
「奥様、本日はその蔵書を譲ってはいただけないかと思いこちらに伺いました」
というと未亡人は、
「本の所有権は私にあるのよ。あの人の研究のせいで私は節約とか我慢を強いられてきたの、この本は全部売り払うわ。これからはやりたいことをやって好きなように生きるの」
と素っ気ない。未亡人は私が亡夫と同じ地方の小さな大学で研究している故に私の給与に見当がつくのか、「買い取りは無理でしょ」という表情で私を見ている。
「そこをなんとか」と食い下がる私を舐め回すように見た未亡人は、私の右手の小指に嵌められた指輪に視線を合わせた。指輪は私の亡妻の左手の薬指に嵌められていた結婚指輪で、私の左手の薬指の指輪とはペアリングになっていた。ギリシア神話を研究していた妻は、東京の有名大学でギリシア哲学の教鞭を執っていた私の指導教官でもあった義父の娘で、私たちはギリシアの神殿の遺跡で結婚式を挙げ、銀婚式と金婚式にはここに戻ってこようと誓った。私が地方の大学にギリシア文化研究の職を得てこれからというときに妻は早逝し、義父は娘の嵌めていた結婚指輪の内側に古代ギリシア文字で娘の名前を彫り、永遠の愛の証として私の右手の小指に指輪を嵌めた。
そんなことをどこまで知っているのか、未亡人は遠慮なく、
「もうこの世にいない人の指輪でしょ、その指輪を私にちょうだい、そして私と一緒に温泉に行きましょう、そうしたらここの本は全てあなたのものよ」と本の山を指差した。
私は偽名で予約した温泉宿で未亡人と一夜を共にすると、ベッドの中で未亡人の指に嵌められた妻の指輪が気になったので指輪を外してくれと頼んだ。すでに間違いを犯してはいたが、今にして思えばこれが最大の間違いだった。外された指輪はまんまと忘れ物となり、宿の女将は偽名の私に連絡をつけられず、女将は指輪の全体がわからないように内側の文字の一部の拡大写真をSNSに掲載し、「指輪の忘れ物だ、持ち主なら写真にない文字や特徴を言え、それまで預かる」と呼びかけたのだ。あろうことかこの写真が義父の目に留まると、義父は私の名を騙り、見覚えのある文字と指輪の特徴を宿に伝え、亡き娘の指輪を入手した。義父は女将とのやりとりで私の宿での行動を理解したようだった。
義父は私を呼びつけ「なぜ死んだ娘の指輪が温泉宿に忘れられたのか説明しろとは言わない。君は誓いを裏切ったね」と詰め寄り、私は平身低頭に先輩教授宅での蔵書の件を包み隠さず話した。だが義父は「誓いを軽んじるな、指輪は私が預かる、代償は覚悟したまえ」と憤慨した様子で私を突き放した。
翌朝の新聞に義父の意見投稿が掲載された。投稿は高齢化する研究者の蔵書散逸対策で、一般論で巧みに覆い隠してはいるが、「先日他界した某教授のギリシア関係の貴重な蔵書が心ない個人の手に渡り、売買の対象にされそうだ、ここはどこか図書館が買い取りや管理を申し出てはどうだろうか」という内容も含まれていた。
学会の重鎮の寄稿とあって世間は義父の投稿内容から未亡人を特定し、故先輩教授宅はマスコミに囲まれ、蔵書の処分方法を詰め寄られた未亡人は勢いで自治体図書館への寄贈を宣言した。未亡人は図々しくも図書館の理事に名を連ねたが、私は義父の圧力でギリシア学系の学会から締め出された。
辛うじて大学に残るも研究発表の機会は在野に下り、自治体図書館で先輩教授の遺した蔵書を借りては独り細々と研究を続けていたある日、義父の訃報が届いた。浮気者のレッテルを貼られた私に義家の対応は冷たかったが、義父の遺言だと私に指輪を返してくれた。ほぼ同じ頃、図書館から先輩教授の未亡人の理事退任が発表された。
学芸員が寄贈を受けた原書を調べていたところ、何冊かは五十年前にギリシアの図書館から盗まれものだと判明したらしい。図書館は、地元の大学に奉職し、遺贈された原書を頻繁に借りていた私に図書の返還役を依頼した。
図書返却の遣いを終えた私は、図らずも妻が生きていれば銀婚式だったであろう節目の年に、挙式した神殿跡を訪ねる機会に恵まれた。さて金婚式にまたこの地に戻る誓いは守れるだろうか。
Orkos kai kolaxとうギリシャの諺は、誓いは容易に立つが守ることは難しいと伝えている。私はそんな諺を呟きながら、右手の小指に戻った指輪を撫でながら誓いを新たにした。
(了)