第28回「小説でもどうぞ」選外佳作 契約書にサインを ともみ
第28回結果発表
課 題
誓い
※応募数272編
選外佳作
契約書にサインを ともみ
契約書にサインを ともみ
「これに、サインして欲しいんだ」
「……なんだこりゃ」
真っ昼間のファミレスで、生真面目な顔で書類を差し出す恋人の直哉に、私が素っとん狂な声を出してしまったのには訳がある。
テーブルの私の目の前に置かれたのは、彼がパソコンで手作りしたのであろう『婚約事前承諾書兼契約書』というもの。
急ぎの用で会いたいと言うから、会社をランチ時間に抜け出し、受付嬢の制服から着替える手間も惜しんで駆けつけたというのに、要件とはこれだったのか。直哉のいつもの変な癖が始まった、と私は内心で溜め息をついた。
交際を始めて以来、いろんなタイミングで「デートプラン提案書」やら「プレゼント交換企画書」とやらにサインしてきた。今さら驚かないが、彼は何かと書類を作りたがる節があり、しかも形式にひどくこだわる。
「『婚約事前承諾書兼契約書』。どんな意味?」
私が紙面を指さすと、直哉は姿勢を伸ばし、かたい表情で答える。
「甲が僕で、乙が君だけど……、甲から乙への求婚の申し出があった場合には、快諾するということを定めた書類だね」
紙面にはご大層な明朝体で、第一条から第五条までの細かい条文が連なっているが……。
「つまり、もし直哉にプロポーズをされたら、私が『はい』って必ず答えますということを、今、ここで、誓えと言ってるの?」
直哉は神妙な面持ちで、こっくりと頷き、「平たく言えば、そうだね」と言った。
それって、もうプロポーズしてるも同然なんじゃない? 私は危うく声に出しそうになったのをドリンクバーの安いジュースと一緒に飲み込んだ。そこに頼んだドリアとスパゲティーが届いたので、直哉はあわてて書類が汚れないようにファイルにしまい込んだ。
続きは食事のあとにしましょう、とふたりそれぞれスプーンとフォークを持つ。食事のときは互いに静かになるから、私はスパゲティーを口に運ぶ直哉の黒髪の頭のてっぺんを眺めながら、頬杖をついて考えた。
直哉とは付き合ってもうすぐ四年になる。年下の彼は今年二十六歳、私はもう二十九だ。変に真面目で不器用な彼だが、彼なりに私を大切にしてくれていることは十分に伝わっている。そういう誠実なところが好きなのだ。
明日はふたりの付き合った記念日で、仕事終わりに高級フレンチのディナーに行く約束をしていた。そうか、だから直哉は急いでいるのか。私はその確信に、思わず胸にこみあげるものを感じた。
なんとなくそんな気はしていたけれど、いざそのときが来ると、嬉しいやら恥ずかしいやらで、頬が上気してしまう。
「ねえ、さっきの紙、貸して。サインする」
直哉ははじかれたように顔をあげた。丸い目が見開かれ、喜びに輝いている。
「ありがとう! しっかり読んでね」
『婚約事前承諾書兼契約書』
文香(以下乙)と直哉(以下甲)は、求婚にあたり、乙が甲に対し、以下のいかなる場合においても承諾の意を示す契約を締結する。
第一条 本契約は甲と乙が婚約をし、末永く幸せに暮らすことを目的とし締結する。
第二条 契約には以下の義務を伴う。
一、乙は甲が音痴でも求婚を承諾する。
二、乙は甲がダンスが下手でも求婚を承諾する……。
これ以上は読まない方がいいかも、と私は静かに目を伏せる。やがて、どんな未来も受け入れる覚悟を決めると、ペンを手に取った。
ファミレスを出て、会社へ戻る足取りはちょっとだけ重い。ビルの合間の澄み渡った青い空を見上げて、私はしみじみと思うのだ。
たぶんだけど、明日、フラッシュモブでプロポーズされるんだろうなあ。
(了)