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5.17更新 VOL.1 歴史小説歴史脚本 文学賞ってそんな昔からあったんですか? 文芸公募百年史 5.17更新

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文芸公募百年史

VOL.1 歴史小説歴史脚本


始まりました「文芸公募百年史」。文学賞って100年前もあったんですかと思うかもしれませんが、あったんです。100年どころか、130年も前に。
当時は“懸賞小説”というタイトルが多いですが、新聞などメディアが台頭した時代で、その創刊記念や周年事業に盛んに懸賞募集が行われました。
本連載では、そうした隠れた歴史を紐解いていきたいと思います。

日本最古の懸賞募集「歴史小説歴史脚本」

日本には江戸時代から俳句や川柳を投稿する懸賞文芸という娯楽があったが、そこにきて明治期、グーテンベルクの印刷機の輸入で活版印刷が盛況となる。読売(俗にいう瓦版)は廃れ、新聞、雑誌の創刊ラッシュとなるが、肝心の書き手がいない。そこで読者がライターの役割を担ったというのが読者投稿の始まりだった。

懸賞小説、懸賞論文も盛んに行われるが、その中でもっとも古いと思われるものを探したところ、明治26年に読売新聞社が募集した「歴史小説歴史脚本」があった。
選考委員は尾崎紅葉や坪内逍遥など4名。第1回の入選者は残念ながら不明だが、翌27年には2席入選に「瀧口入道」(1席は該当作なし)を選んでいる。
「瀧口入道」? 聞いたことあるような、ないような……。

入選作は浪漫主義文学の代表となる「瀧口入道」

作者は匿名で応募し、入選発表時は「無名氏」となっている。
これは明治期の懸賞小説、懸賞論文には珍しくなく、該当作が決まり、紙上で発表になったあと、「作者は私です」と名乗りを上げるのが一般だった。
入選者は、のちに東京帝国大学の学生、高山林次郎と判明する。あの高山樗牛である。

高山樗牛は明治4年、山形県生まれ。生家は斎藤家だったが、伯父の高山家の養子となったため、本名は高山林次郎となる。のちに樗牛と号すが、樗牛とはなんだろう。
筆名は旧制第二高校時代から使っており、これは荘子の「逍遥遊」、すなわち、「有用な木となって切られるより、 ごんずいのような大きく役に立たない木になってその下で散歩逍遥したい、小さい狸となって殺されるより、大きく無用の牛となって漫歩したい」から来ていると言う。無用の用だ。

入選作「瀧口入道」は、武骨一辺の青年武士、齋藤時頼が恋におち、悩んだあげく出家するが、最後には切腹するという話。平家滅亡の哀史を背景に、時頼と横笛の悲恋を描いた歴史小説で、明治中期の浪漫主義文学を代表する古典として名高い。昭和初期には映画化もされており、岩波文庫にも入っていたが、今は青空文庫でも読める……。
〈驕る平家を盛りの櫻に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕の臺に集めて都西八條の邸宅。〉←教養不足で全然わからん。

50円の金時計は換金して学資に

樗牛は入選時、東京帝国大学哲学科の学生だったが、卒業後は仙台二高の教授となり、その後、文壇誌「太陽」の文芸主任となって文芸評論家として活躍している(この「太陽」の版元は博文館で、昭和38年に平凡社が創刊させる「太陽」とは別もの)。
退職後は東京帝大講師となるが、32歳のとき、肺病のため杏雲堂平塚病院で亡くなっている。逝去する前、鎌倉の長谷寺内で転地療養をしており、境内に「高山樗牛 ここに住む」の碑がある。長谷寺、今、紫陽花が見頃だろう。観光で行く人は樗牛の碑、見てください!

ということで、史上初の懸賞小説入選者が生まれた。文学史の中では小さな出来事でも、公募文学史では真っ先に挙げたい出来事ということでここに取り上げた。
ちなみに「歴史小説歴史脚本」の賞金は1等100円、2等は50円相当の金時計で、樗牛は2等の金時計をもらうとこれを換金し、学資にしたという。明治期の50円は現在の20万円ほどで、なかなかの臨時収入だったろう。

追記。樗牛と公募とのかかわりはこれだけだが、余談ながら現在、鶴岡市では庄内地方に居住する者で文芸等において優秀な作品を発表した人を表彰する「鶴岡市高山樗牛賞」を実施している。