公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

6.7更新 VOL.2 大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説 文学賞ってそんな昔からあったんですか? 文芸公募百年史 6.7更新

タグ
小説・シナリオ
小説
文学賞ガイド
文芸公募百年史

VOL.2 大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説


毎月第1・第3金曜更新で始まった「文芸公募百年史」。第2回は、大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説だ。
実施されたのは明治37年。告白体の小説が始まったのは明治40年の田山花袋『蒲団』と言われているので、それよりもちょっと前。
当時は目新しかった家族小説の書き手が発掘される。しかし、そこに事件が!

審査に厳正を期すために匿名応募が条件

前回紹介した懸賞公募「歴史小説歴史脚本」が明治26年開催だったので、その11年後になる。明治37年、「大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説」が行われている。
大阪朝日新聞ってなんだと思うかもしれないが、朝日新聞は明治12年に大阪で創刊され、明治21年に東京に進出して東京朝日新聞を創刊。これを機に、明治22年から西日本版は大阪朝日新聞と名称を変更した。

この後、「○周年記念」という懸賞募集がたくさん出てくるが、大阪朝日新聞のこの周年事業はそのさきがけだった。
で、応募規定で面白いのは、「歴史小説歴史脚本」と同じで、応募者は匿名で応募したこと。これは応募者が希望したわけではなく、「審査に厳正を期すため本名を伏せる」が応募条件だったのだ。

匿名応募が条件? 審査に厳正を期すため? いやあ、これ、今の公募が見習うべきだよね。年齢とか性別とか、先入観が入らない保証はないしね。今なら、メールアドレスだけ明記して応募し、入選者にだけに連絡が来るように容易にできる。まあ、この方式でなくてもいいが、応募作品に年齢や性別を書いた用紙を添えて選考する方式は、そろそろ廃止してほしいよね。

受賞者不明で半年も調査、実は受賞者は……

いきなり本題からズレたが、大阪朝日新聞は無事選考を終え、受賞作を発表した。作品には「琵琶歌 桃郎とうろう作」とあり、「受賞したので連絡されたし」と紙上で呼びかけたが、なんと受賞者が名乗り出ない。結局、半年にもわたる調査の結果、作者は大倉桃郎(本名国松)であるとわかったが、では、なぜ名乗り出なかったか。

ヒントは、明治37年。この年には何があったか。そう、日露開戦だ。
実は桃郎は応募原稿を友人に託すと日露戦争に出征してしまい、紙上で発表された頃は激戦の地・旅順を攻める包囲軍にあって受賞を知らなかった。また、原稿を託した友人は他紙の購読者だったので気づかなかったという。

何、この劇的な話。今だったら「受賞者は誰だ」とネットニュースになっているよね。それで受賞者が名乗り出て、またニュースになり、口さがない人たちに「裏で電通が動いているに違いない」なんて言われたりしそう(しないか)。
このときもやはり話題になったようで、この事件自体が物語となって発表の前座を飾ったそうだ。作品で話題になったのではなく、出来事自体が話題となったわけだ。

一躍時の人、そして新聞記者に

バイロンは「ある朝、目が覚めたら有名になった自分がいた」と言ったが、桃郎は旅順から復員したら作家になっていた。一躍時の人だ。賞金は300円。今の価値に換算すると100万円ぐらい。日露戦争では9万人弱が亡くなっているので、「生きて帰れてよかったー」と思っただろうね。

では、受賞作の「琵琶歌」とはどんな小説なのか。調べてみると、つらい境遇の青年が日露戦争に出征することによって差別を跳ね返そうとする家族小説だったようだ。おお、現実そのまま。この頃はまだ私小説という言葉はないが、あらすじを読む限りでは、周囲は実体験だと思っただろう。実際、作品の内容が現実に近いため、虚構と現実の境界が曖昧になり、「琵琶歌」が出版された際には、まだ出征中だった桃郎からの手紙が付録として収録されたそうだ。

しかし、大倉桃郎という作家は、歴史には残っていない。受賞はしたが、一発屋で消えていなくなったのかと思ったら、当時は歴史ものや少年少女小説の作家として活躍したらしい。また、受賞後、ゴシップ報道の先駆的新聞で、日本初の推理小説を書く黒岩涙香が創刊させた萬朝報(よろず重宝の洒落)の記者として活躍したそうだ。なんにしても、書くことを仕事にできたのだから、受賞は無駄ではなかったわけだ。よかったね~(もう中学生風)。