第36回「小説でもどうぞ」選外佳作 くじらの絵 島丘來
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
選外佳作
くじらの絵 島丘來
くじらの絵 島丘來
ボサボサの髪、真っ赤に泣き腫らした目元、鼻水をすする音。アートギャラリーには、明らかに場違いな女性がいる。
かれこれ二十分は動かないので、俺はとうとう声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「あんたが描いたの?」
一瞥もせず女性が言う。潤んだ目が見据えるのは、額に縁取られた海で、下に向かって泳ぐくじらだ。
このアートギャラリーでは、俺の作品が展示されている。五日間借りて、今日で三日目。誰も来なくて暇していたところに、この女性はやって来た。
「はい。ここにあるのは全て僕の作品です」
普段とは違う一人称を使って答える。女性は興味なさげに「ふぅん」と呟くと、それきり黙り込んだ。
他に誰か来てくれないだろうか。そんな期待を込めて入り口に目をやったとき、女性が言った。
「これ、ちょうだい」
信じられない言葉に、停止しかけた思考を無理やり動かす。
「すみません、それは売り物で」
「わかってるよそんなの。買うって言ってんの」
今度こそ開いた口が塞がらなかった。
値段は安くないし、サイズも三十号なので手頃とは言い難い。喜びよりも先に戸惑いが生じる。
しどろもどろになっていると、女性は指先を更に絵に近付けた。
「無理なの?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
反射的に返事をしてしまった。
何とか梱包を終えて額縁を渡すと、女性が不満げに「でかいんだけど」と呟く。配送を提案したが断られたので、即席で取っ手らしきものを作った。
「ありがとうございました!」
出口まで見送って深く頭を下げる。女性の姿が見えなくなると、段々実感が湧いてきた。俺の描いた絵が初めて売れたのだ。先ほどまで纏わりついていた不安が、飛び跳ねて叫びたいくらいの喜びに変わっていく。
明日も頑張ろう。そう決意した翌日、再び女性が現れた。
「これとこれちょうだい。あとこっちも」
無名作家の初個展に、こうもホイホイお金を出してくれるなんてまずあり得ない。
ビクビクしながら梱包と会計を終え、昨日と同じように出口まで見送る。
「いつまでやってんの?」
明日までだと答えると、女性は少し寂しそうな顔でギャラリーを振り返った。
「じゃあまた明日」
そして迎えた最終日。あっという間に時間は過ぎ去り、終了まであと一時間となった。女性はまだ現れない。
ソワソワしながら時計の針を眺めていると、入り口の扉が開いた。
「間に合った?」
風が強いのか、乱れた前髪を直しながら女性が言う。俺が頷くと、そのまま背を向けて絵を見始めた。
逆さに泳ぐクラゲ、地中で踊る海藻、グラスの上で跳ねるイルカに、月の鉢に住まう金魚。
女性は後ろで手を組み、一つ一つ見ている。
「これさぁ」
声をかけられたので急いで駆け寄ると、小さな額縁の前に女性は立っていた。ピンク色の爪先が示すのは、小さなくじらの絵だ。
「前買ったやつと似てるね」
「一応、対になってます」
広大な海で暗い海の底に向かって泳ぐくじらとは違い、小さな世界に閉じ込められたくじらは光の差す方へ進んでいる。
「光を求めて」
女性は右下に貼ったパネルに目をやると、我ながら安直すぎるタイトルを口にした。
「えっと、前のやつとは違って、このくじらは窮屈な思いをしてるんです。今の状況から抜け出したくて、とにかく上に向かって泳ごうとしてる、みたいな」
絵の説明をするのって、こんなに恥ずかしかっただろうか。無意識に早口になってしまう。
「私と同じだ」
ぼそりと呟いた女性の目は、もう腫れていない。
「私さぁ、彼氏いたんだけど」
「えっ、あ、はい」
突然始まった身の上話にどぎまぎする。
「結婚考えてたんだよね。なのにさぁ、そいつ既婚者だったの」
しかもめちゃくちゃ重い。どう返していいかわからずに苦笑していると、女性の声がワントーン下がった。
「もうどうでもよくなって、貯めてた結婚資金ぜんぶ使おうと思ったわけ」
指先が、タイトルをこつこつと叩く。
「ほんとはホストにでも散財するつもりだったんだけど、なんか気付いたらここにいて」
俺は一歩、近付いた。彼女の声を、少しでも聞き逃したくなかったからだ。
「気付いたら買ってた」
何か心に響くものがあったのだろうか。一人で感動しているところに、「くじら好きだから」と予想外の言葉が続く。
「でっかくて強いじゃん」
まぁ弱くはないだろうと、上に向かって突き進むくじらを見る。
「私はくじらみたいにでっかい女になりたくて生きてきたのに、なんであんなクズのために泣いてんだろって思ってさ」
段々と声に熱が入ってくる。怒りと興奮。それは再起の象徴だ。
「だったら、未来ある若者に尽くした方が全然いいでしょ?」
作品を気に入ってくれたわけではなかったのかと肩を落とす。それでもいいやと、彼女の晴れやかな顔を見て思った。
「でも絵ってけっこう嵩張るよね。お金はまだ余裕あるんだけど、もう置くとこないよ」
「それは、すみません」
「だからこれで最後にする」
ちょーだい、と気の抜けた声は、二日前に聞いたものとはまるで違っていた。
梱包も会計も手間取ることなく終えて、作品を渡す。最後に名刺を渡すと、彼女は「有名になったら行く」と受け取ってくれた。いつになるだろうか。
次に会うときはもっとビッグになってやろうな。ここにはいないくじらに、俺は語りかけた。
(了)