第36回「小説でもどうぞ」選外佳作 あずきたちの戯れ 神和可子
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
選外佳作
あずきたちの戯れ 神和可子
あずきたちの戯れ 神和可子
「これ、何の絵すかね?」
「うーむ」
「丸とか三角は人間すか?」
「うむむ」
「そもそも、これ、どっち向きっすか?」
「うむむむ」
N市立美術館の学芸員・伏見と、学生アルバイトの金山は、一枚の絵を前に頭をひねっていた。
「サインが右下になるように置けばいいっすよね?」
金山は絵をくるりと回転させた。
「いや、そうとは限らんぞ。ほら、こうして……」
伏見はさらに絵を時計回りにくるっと45度回転させた。
「サインは左下かもしれない。もしかしたら上に……」
「えぇ! 真上にサインなんてします?」
「それがK先生は、稀に上にサインされるんだよ」
伏見は胸ポケットからスマホを取り出して、何やら検索して金山に見せた。
「ほら」
そこには、真紅の薔薇を生けた一輪挿しを前に、苦悶の表情を浮かべる半裸の女が描かれていた。腰をくねらせた女は、何故か左腕に信楽焼の狸を抱いている。Kのサインは一輪挿しの真上にあった。
「ていうか、この絵、何すか? 狸がいますけど」
金山は至極もっともな疑問を口にした。
「『闇に踊る恋人たち』というタイトルだそうだ」
「はあ? 何で焼き物の狸を抱いてるんすか? 意味わかんないす」
「私に聞くな。正直、私にだってわからん」
「てか、このころはそんなに抽象的じゃないんすね。今の先生の絵は、ほんとワケわかんなくて。なんか俺にも描けそうだし」
「こら、口を慎みたまえ。先生の絵の評価は非常に高い。展覧会を開けば集客力は通常の何倍にもなる、誠にありがたい先生なんだぞ」
「マジっすか? こんな絵で?」
金山は開いた口が塞がらない様子で、絵をまじまじと見つめている。
Kは現代画壇を代表する抽象画家である。若いころには正統派の油彩画を学んでいたが、四十歳を超えて抽象画に転向。五十二歳のときに発表した「処刑部屋に眠る落花生と薔薇の戯れ」がMoMAの学芸員の目に留まり、それをきっかけに世界中に名を知られるようになった。Kの描く絵は著名人がこぞって手に入れたがり、恐ろしいほどの高値で取引されている。
伏見と金山の前にあるのは、「唾棄すべき獣たち」である。N市立美術館の秋の展示会の目玉としてKが描いたものだ。Kが幼少期をN市で過ごしたという縁で今回の作品提供に至ったのである。どんより曇った灰色の背景に、色鮮やかな幾何学模様が宙を舞い、麻縄のような物体がその周りをぐるぐると取り巻いている。サインは隅にポツンと置かれていた。いつもならはっきりとKのサインが読み取れるのだが、今回はまるでイソギンチャクのようで判読不能だった。そのために絵の向きがわからず、伏見と金山は頭を抱えているのだった。
「何なら俺が先生にどっちが上なんすかって聞きますけど。伏見さんが聞いたらやばいっすけど、学生バイトの俺なら大丈夫じゃないすか?」
「まあ、もう少し考えてみよう。展示室に並べるまでにはまだ間がある」
一週間後、相変わらず伏見と金山はKの絵のことで頭を抱えていた。
「このままじゃ埒が明かないっすよ」
「うむむむむ」
「唸ってたって解決しませんって。ほら、数年前に、モンドリアンの抽象画が何十年も上下逆さまに展示されていたことがニュースになったじゃないすか。観る人にとっては向きなんてどうでもいいっつーか。要はどっち向きだろうと絵は人を魅了してきたってことでしょ? だから先生の絵も横でも縦でも……」
「それだ!」
いきなり伏見が椅子から立ち上がったので、びっくりした金山は手にしていたコーヒーをもろに顔面に浴びた。
「……ということで先生。モンドリアンの件もありますので、今回は、観る者に委ねるという鑑賞者主体を全面に押し出し、より挑戦的な方法で展示させていただきたいのですが……」
伏見は緊張の面持ちでKに話を切り出した。
「モンドリアンの逆さまの話は傑作だったねぇ。私はね、絵が自分の手を離れたら自由にどこへ行ってもいいし,どうとらえられてもいいと思っているんだよ。だから、観る者に完全に委ねるという今回の方法はいいじゃないか。自由にやってくれてかまわんよ」
Kはあっさり快諾すると、銀座のクラブに飲みに行くからと言って、さっさと帰ってしまった。
一月後、N市立美術館の秋の展示会が始まった。「唾棄すべき獣たち」は回転する円形の台の上に展示されていた。中華料理店の円卓のように、鑑賞者が自由に回転させて、好きな方向から眺められるようにしたのだ。子供が面白半分で勢いよくぶん回し、慌てて警備員が駆け付けるといった小さな事件も起きたが、この円卓方式は話題を呼び、円卓を回す整理券を求めて、前日から並ぶ者まで出るほどであった。
「けっきょく絵の向きはわかんないままっすか」
「まあ、苦肉の策とはいえ、円卓方式で何とか切り抜けたんだから、よしとしようじゃないか」
「もとはと言えば、あのサインがいけないんすよ……」
好物のあずきバーをしゃぶりながら、Kはあの絵に思いを馳せていた。
「まさか私の絵が円卓の上に載る日が来るとはねぇ。全く面白いことを考えたものだ。それはそうと、あれは銀座でしこたま飲んだ後に酔いにまかせて描き殴ったから、何をどう描いたのかサッパリ覚えとらんのだよなぁ。おっと、いけない……」
溶けたアイスが棒から滴り落ち、テーブルクロスにシミをつくっていた。Kが慌てて指先で拭うと、それはまるでイソギンチャクのように花開いた形となった。
(了)