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第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 受け継いだのは 八燈えいる

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第10回結果発表
課 題

さだめ

※応募数276編
 受け継いだのは 
八燈えいる

「大和くん、ピアノすごく上手なんですね。今日、自由時間にみんなで順番にピアノを弾いていたんです。そしたら大和くん、お遊戯会の練習で私が弾いた曲を、パラパラ〜っと弾いたんですよ。正直私よりも上手で、当日は大和くんに弾いてもらおうか!なんて、さっき職員室で話してたんです」
 こんなに近くにいるのに、先生の声が遠くから聞こえる。私は、目の前がグルグル回る感覚に陥った。
「あれ? 東堂さん? 大丈夫ですか?」
「あ、すみません。大丈夫です。ちょっとここのところ目眩が多くて」
「だいぶ暑くなってきましたからね。たくさん食べて、休めるときにしっかり休んでいきましょう」
「ええ、気をつけます」
「それでは、お時間いただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、園での様子が聞けてよかったです。普段あまり話してくれないもので」
「男の子ですから、そんなもんですよ」
「そうですよね。あ、もうこんな時間! では、ありがとうございました。失礼します」
 足早に教室を出て、面談中に預かってもらっている大和を迎えに、一階のホールへ向かう。
 私は、息子の大和にピアノを弾かせたことは一度も無かった。それなのに、聴いただけで音を覚えて、ピアノを弾くなんて。どう考えても彼の血を受け継いでいる。私は、はやる心を抑えきれなかった。
「大和〜! 迎えに来たよ」
「ママ! 終わったの? ちょっと待って! これ片付けてくるから」
 大和は、ブロックでできている乗り物のようなものを走らせながら、お片づけ箱へ向かう。先生に挨拶をして、荷物を持って、ホールから出てきた。
「先生、さようなら」
「ありがとうございました。さようなら」
「はい、さようなら。また明日ね」
 玄関で靴を履き替えると、大和が自慢げに話す。
「僕ね、今日、ピアノを弾いたんだ。そしたら、先生がとっても上手だって褒めてくれたの」
「先生もさっき言ってたよ。何弾いたの?」
「わかんない。猫のダンスのやつ。タラランターン、ターン、タタン」
 口ずさみながら、夕暮れの帰り道を歩きだす。ふわふわした髪の毛も、切れ長で涼しげな目元も、笑った顔も、彼に似てきた。
「ママ、僕、お家でもピアノ弾きたいな。それで、『ピアニスト』になるんだ」
「そっか。でも大和には、ママのためだけにピアノを弾いてほしいな」
 同じ顔で、同じ夢を見ている二人の姿が重なる。大和の父親については、実の両親にも伝えていない。もちろん、大和も会ったことはない。それなのに、父親が実現できなかった夢を息子は追い始めようとしている。
「今度、ママにも聴かせてあげる。だからさ、ピアノ買ってよ」
「じゃあ、週末、楽器店に行ってみようか」
「ホント! やったぁ!」
 いつかきっと、こんな日が来ると信じていた。私の手元には、彼が遺していってくれたピアノ資金がある。使わずに取っておいてよかったと、心から思う。
 私はこれから先、大和のピアノを通して、きっと何度も彼に出会える。残念ながら、彼とはずっと一緒にいられなかったけれど。
 だから、そう。今度は失敗しないようにしなくちゃいけない。
 彼の演奏は、私だけのものだ。それなのに、ピアニストになりたい、みんなに聴かせたいだなんて。そんなことを言うから、彼は永遠にピアノが弾けなくなってしまった。
 そう、全部彼が悪いんだ。だから事故として処理されたのも当たり前。あの日、彼を突き飛ばしたこの右手で、今は息子の手を握っている。この手で掴むんだ。今度こそ、あの演奏を私だけのものに……。
「ママ、痛いよ!」
 いつの間にか、握っていた手に力が入ってしまったみたいだ。ふっと力を抜き、大和の手を包むように撫でて手を離し、大和を見つめながら満面の笑みで言った。
「ピアノ、上手に弾けるようになって、ママにたくさん聴かせてね」
 すると大和は、ニコッと笑って、こう告げた。
「ごめんね、僕たちの演奏は、君には聴かせてあげられないんだ」
 大和が言った瞬間、私の体は、道路に押し出されていた。走ってきた乗用車が、私の体を勢いよく跳ね飛ばす。そんな。なんで。
 最期に私が目にしたのは、大和によく似た、大好きな彼の笑顔だった。
(了)