第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」発表 高橋源一郎&千早茜 公開選考会
選考会では両先生が交互に感想を言い合い、採点しています。作品の内容にも触れていますので、ネタ割れを避けたい方は下記のリンクで事前に作品をお読みください。
1981年『さようなら、ギャングたち』でデビュー。すばる文学賞、日本ファンタジーノベル大賞、文藝賞などの選考委員を歴任。
1979年北海道生まれ。08年『魚神』で小説すばる新人賞受賞。23年、『しろがねの葉』で直木賞受賞。
撮影:中林香
「最期の馬券」は、
まとまっていた
いかんせん笑えない
高橋スリッパを履いて年表の上で転ぶと時空を超えるというタイムスリップマシンが発明され、たまたま行った未来で知ったことを『この世のさだめ』という予言書にまとめたという話です。
面白い発想ですが、問題はタイムスリッパがどういう理屈でどう動いているかよくわからないことと、どこが「さだめ」なのかわからないこと。予言書のタイトルになっているだけで、オチになっていません。△マイナスですね。
千早まず、ドタバタ喜劇を目指すならもっと読みやすくしてほしい。途中で〈なんでまた鎌倉幕府でコケたんだろう〉と自分で自分にツッコミを入れていますが、こう書くと視点人物が誰かよくわからなくなって混乱します。
鎌倉時代なのに頼朝が「不思議な」と言うのもひっかかります。スリッパの「右片方」という言い方も、左右二個しかありませんので「片方」か「右」のどちらかでいい。そういう小さいところからブラッシュアップしたらもうちょっと面白くなると思いますが、すみません、私は×です。
高橋タイムスリップをなぜ三回やるのかとか、鎌倉時代だって長いのになんでいつも頼朝のところに行くのかとか、そういう細部を詰めてほしかったですね。
千早主人公が蹴った石が車に
また、最初と最後に繰り返しを使っていますが、せっかく繰り返しを使うのなら、次の繰り返しのときには違った景色が見えるなど、効果的に使いたいですね。△マイナスです。
高橋粉々になった石を見て、あれが人だったらと思うところから始まり、いきなり祖母の訃報が届き、死について思い、地震が来て病院が潰れ、ほかのみんなは死んでと、必然性はあまりないです。
それと一番の問題は、タイヤに頭を打ちつけて死ねるの?ということ。タイヤって硬いけどゴムだからね。最後は説得力がないので、△?(死ねるの?)です。
千早擬音も「コツン」「コロコロ」「ぱんッ!」ではなく、もっと独創的に。人と石が弾ける音は同じではないと思うんですよね。
高橋ヒデさんは本命の馬券を買わない。本命はほかに頼るものがない人が買うものだと。そんなヒデさんも最後は主人公に本命を買ってくれと頼みますが、本命は二着に終わり、ヒデさんも亡くなる。
少し説明が多すぎますね。競馬小説としても定型というか、よくある話ということで、△です。
千早8編の中ではよいほうだなと思います。まとまっています。
確かに余分な説明が多く、〈本命を買わないのは、単にオッズが低くて馬券の旨味がないからといった俗な理由ではないことだけは明らかだった〉は余分。〈私の胸には……大きな穴が空いていた〉は月並み。〈ヒデさんは私に息子さんの影を見ていたのだろうか〉は書かなくていい。こういうところを削っていけば、雰囲気は淡々としていますし、全体的に安定していますので、△プラスです。
ダブルミーニングが
一番よかった表現
ピアノが聴こえない
千早小学六年生のときにタイムカプセルに詰めた手紙が持ち主に返され、読むと「四十三歳の誕生日に死ぬ」と自分で予言している。前向きな妻に、この先の未来を書き換えればいいと励まされ、七十二歳までの未来予想図を書くが、地震が来て死ぬという話です。
どんでん返しの構造にはなっていますが、どこかで読んだような話だと感じてしまいます。△です。
高橋〈三十年後のあなたへ〉という手紙がどんな経緯で届いたのかがよくわからない。説得されない感が残りました。二月二十九日生まれだから、まだ四十三回も誕生日を迎えていないという理屈は利いている? 関係ないのでは? 怖い話ならもうちょっと怖がらせて欲しかった。△です。
高橋レコード会社に対して、豚が「さだめ」という歌をプレゼンし、CD化を拒否された瞬間に武装蜂起した、という歴史を豚の先生が話しているという設定です。結果、豚の世の中になり、今では豚権記念日にみんなで人肉を食べる。それがさだめだとなります。
ちょっとブラックな話で、嫌いではないですが、これって人の肉を食うって話じゃない? だとすると軽いかな。もうちょっとダークにしないと。△プラスです。
千早冒頭の〈鼻を鳴らしました〉は、人間も鳴らしますし、豚も違う意味で鳴らしますので、8編の中で唯一騙されたと思った表現でした。場面転換で前後半に分け、前半を「ですます調」にしたところもうまく、テンポもよかった。
人食いにしては軽いですが、私は軽いならあえてめっちゃ軽くして、子豚たちはピンクのツヤツヤほっぺとか、グロかわいい感じで描写すればよかったかなと。
さだめは結局、強者が決めるもの、食べる側が決める勝手なものだよねという解釈も割と好きだったので、△プラスです。
千早女性はピアニストだった夫の演奏を自分だけのものにしたくて殺害する。彼女の息子は父親譲りで才能があり、「ママのためだけにピアノを弾いてほしい」と言いますが、そのとき、死んだ夫が息子に
この小説は忙しいし、もっとサイコパスの精度を上げてほしい。そもそも主人公は愛した男のピアノの音が好きなんですよね。だったら最後に目にするのは顔じゃなくて、音であってほしい。そうしたら「今、聴こえている音は自分だけのものだから」というカタルシスを最後に得て死ぬことができるのではないかなと思います。
それとピアノのことを書いているのにピアノの音が聴こえてきません。ほかの作品にも言えますが、馬のにおいがするとか山のにおいがするとか、もっと伝わってくる感覚が欲しい。△マイナスです。
高橋小説は基本的に細部でできています。ストーリーやキャラクター設定、エピソードのあり方のほうに目が行きがちですが、読者が読んでいるのはそこじゃない。これに気がつかない人が多い。
逆にストーリーはめちゃくちゃで、キャラクターも破綻していても、細部がよかったら読めるわけだからね。そういう意味で言うと、みんなエピソードの構成に力を注ぎすぎ。設計図を肉づけしたところで終わっています。
ピアノの音が聴こえないから、殺された夫のピアノにはどういう魅力があったのかがわからない。だからなぜ殺したのかもわからず、説得力もなくなっています。
千早最初の会話もすごく長いです。ここに演奏する描写を持ってくればよかったと思います。
高橋物語ありきというか、ちょっと方向が違うんだなあと思いました。△です。
感覚的に描写すれば
伝わりやすくなる
噴き出してしまう
高橋寿司屋に行くと、ネタは自分で釣れと言われます。「さだめ」という魚がいて、食べてくれる人間を自ら選ぶのだと。主人公は怖くなって逃げますが、「さだめ」の握りは宅配便で自宅に送られてくるという話です。
恐怖小説と言えば恐怖小説ですが、食べればいいよね。怖くなるところが空振りしていて、なんか笑ってしまう。△マイナスです。
千早〈私はさだめに抗ったことに対する得も言われぬ達成感を得ていた〉って、別に食べないで帰っただけですよね。ちょっと感情移入ができないですね。池も水が大きく盛り上がるなど細部を書いて、魚じゃないんじゃないかと思わせないと恐ろしくないですね。
冒頭に「寿司屋」が三回もでてきます。言い回しを変えたい。来店時、「寿司を食べに来ました」と言いますが、言わなくないですか。「空いてますか」とかですよね。ちょっと噴き出してしまいそうになります。△マイナスです。
千早たぬきの子が人間界に連れ去られてしまい、母親は心配して会いに行きますが、動物園なら飢えることも凍えることも交通事故もなく、これは幸せなさだめだったのかと自問するという話です。
かわいく切ないですが、やっぱりよくある話です。いいところは、長老のアケビばあちゃんが「どっこい生きていける子だ」と言うなど田舎のおばあちゃんみたいな口調をしていること。ただ、「私たち」は「私ら」じゃないかな。
それとファンタジーの場合は手ざわりが大事だと思うので、ふわふわした手ざわりとか、山や茂みのにおいとか、人間界のアスファルトのにおいとか、そういう対比を感覚として描いてくれたほうが、動物が主人公なんだなと伝わりやすくなると思います。△です。
高橋親だぬきは頭に柿の葉に似た模様があり、子だぬきは星の形のような模様があります。これが細部ですね。名前はポンカン。かわいいですね。たぬきだとは言っていませんが、これでわかってくれという書き方です。
最後は「今のって、たぬき!?」でたぬきだと明かします。定型的な終わり方ですが、僕は好きですね。好感が持てます。人柄ならぬ作品柄がいい小説です。どこがすごいってわけではないですが、ちゃんと書いているなという感じがして、△プラスです。