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第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 さだめの握り 月本葉

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第10回結果発表
課 題

さだめ

※応募数276編
 さだめの握り 
月本葉

 排気ガス臭い路地を何度も曲がり、街の灯りからだいぶ遠ざかったところに、その寿司屋はひっそりと存在していた。何も知らなければ、ただの古民家として通り過ぎてしまうくらいに、その寿司屋は風景に溶けていた。
 来客を追い返す勢いの圧を備えた数奇屋すきや門には、紋付き暖簾のれんが掛けられていた。白抜きの大きな目玉を持つ正面向きの魚の家紋。極上の一品のみを提供するという噂の寿司屋。ここだ、間違いない。
 わずかな月明かりを頼りに奥へと続く飛び石の路を進んでいくと、丸い赤提灯を脇にぶら下げた格子戸が見えてきた。どうやらここが店の入り口らしいが、しんと閉じられた扉の向こうに人の気配はなかった。
 そのとき、どこからかポチャンと何かが水に飛び込むような音がした。一瞬だったが、やけに鼓膜に残る音だった。すると、格子戸の奥がパッと明るくなり、引き戸が開くと中から板前姿の男が出てきた。
「いらっしゃいませ」
 男はこちらが恐縮してしまうくらい丁寧なお辞儀で出迎えた。溌剌はつらつとした声と歪みのない体躯たいく、澄んだ瞳。歳なら私と同じ三十代半ば、もしくは下といったところか。
 私もつられて頭を下げる。「あの、寿司を食べに来ました」
 男は柔らかく目元を緩ませ頷いた。
「ええ、もちろん知っています。どうぞ中へ。お席までご案内いたします」
 通された店内は、大きなカウンターに数脚の椅子が並べられているだけの、いたって簡素な内装であった。私と店員の男以外に、客はおろか他の従業員の誰もいなかった。
「ご注文を伺います。といっても、うちは一品しか提供していませんが」
 苦笑いの男は通過儀礼のようにカウンター越しに二つ折りの紙を手渡してきた。紺色の和紙に暖簾と同じ家紋が印刷されている。開くとそこには、

『お品書き さだめの握り』 以上。

「じゃあ、これをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 そう言うと男は、カウンターのそばに立てかけてある釣り竿を持ってきた。男は笑顔で「どうぞ」と私に差し出した。
「釣り竿なんて、え、まさか今から魚を釣ろうっていうんじゃあ……」
 半ば冗談で聞いてみた私の問いに、そのまさかですと言うかのように男は外の庭へつながる勝手口の鍵を外し、こちらへ来いと手招いた。仕方ないので言われるままに庭へ出てみると、そこには大きな池があった。大型トラックなら一台丸っと余裕で入りそうだ。
「今からこちらの池で、お客様自身の手でネタを釣り上げてもらいます」
 ネタとはお品書きにあった「さだめ」のことだろう。夜の池は黒くて、中に生き物がいるのかどうか確認できない。さだめという魚が本当にいるのかどうか疑わしい。半信半疑になりながらも、私は池に釣り糸を落として男に訊いてみた。
「あの、さだめとはどんな魚なのですか」
 男は池に目を向けたまま、やや鼻息荒く解説を始めた。
「さだめという魚は非常に面白い魚でしてね。食べてくれる人間を、自ら選ぶんですよ。食べられる運命に抗うことなく人を見定める目を持っている、たいへん賢い魚なんです」
 私は釣り竿を持つ手が汗ばむのを感じた。この男の話が本当ならば、いま私は見定められているのか。得体の知れない魚に。真っ黒な池の中から、無数の目がこちらを見ているような気がして、なんだか背筋が落ち着かなくなってきた。
 数十分が経過したころ。生ぬるい夜風が釣り糸をわずかに揺らした。次の瞬間、釣り竿が大きく弧を描いた。ついに獲物がかかったのだ。
「おめでとうございます、さだめはあなたを選びましたよ。さぁ! 釣り上げてください」
 男は興奮気味に私を促した。いや、本当に釣り上げていいものなのか。ひょっとして、私は今からとんでもなく恐ろしいものを釣り上げてしまうのではないのか。
「あ、あの。もしこのまま釣り上げなかったらどうなりますか。さだめは逃げますか?」
 唐突な私の問いかけに対して、男は意図を図りかねたようで一瞬顔を曇らせた。しかし、すぐに元の柔和な表情に戻った。
「さだめは逃げません。あなたに食べられるまで決して離れないと決めたのです」
 私は堪らず釣り竿を投げて店を飛び出した。無我夢中で来た道を走って逃げた。

 目が覚めると、自室のベッドの上だった。店を出たあと、どうやって家までたどり着いたのか完全に記憶が抜け落ちていた。結局、さだめがどんな魚で、どんな味をしているのか知ることはできなかった。でも正直、もうそんなことどうでもよくなるくらい、私はさだめに抗ったことに対する得も言われぬ達成感を得ていた。
 ベッドから起き上がろうとしたそのとき、インターホンが鳴ったので出てみると宅配便だった。はて何か注文していたかと箱の送り状を見て、全身が凍り付いた。
『品名 さだめの握り』 
 ──さだめは逃げません。あなたに食べられるまで決して離れないと決めたのです
 男の最後の言葉が脳裏をよぎっていつまでも消えなかった。
(了)