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第10回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 ぼた餅と走馬灯 川瀬えいみ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第10回結果発表
課 題

さだめ

※応募数276編
選外佳作
 ぼた餅と走馬灯 川瀬えいみ

『三十になるやならずで、こんな阿呆な死に方をするのなら、五年前のあの日、料子が作ってくれたぼた餅を食えばよかった』
 人生の中で最も意義深い命の最期の瞬間に、俺の心を占めた後悔がそれだった。

 あれは俺が料子と結婚を前提にした同棲を始めた日。翌日には健康診断の予定が入っていた。俺は、血糖値を気にして、せっかく料子が作ってくれたぼた餅を食わなかったんだ。
 悪いのは俺だ。事前に知らせておけば、料子だって、よりにもよって健康診断の前日に、糖質の塊であるぼた餅を作ったりはしなかったろう。俺の不首尾を「せっかく、あなたの好物を作ったのに」なんて文句も言わず、「ちょっと間が悪かったわね」と苦笑いで許してくれた料子。あれで料子に惚れ直した俺は、翌日から料子が作ってくれるものは何でも、「美味い、美味い」と食いまくった。
 すっかり胃袋を掴まれて、二年後、正式に入籍。結婚三年で体重が十五キロほど増加した俺は、ダイエットのためにマンションのエレベーターを避け、階段を使う幸せな日々を過ごしていた。まさか、その幸せが仇になるなんて……。
 微妙に膨れた腹のせいで足元を見失った俺は、足を滑らせて鉄骨階段の最上部で転倒。ガンガンガンと後頭部を幾度もスチール製の踏み板にぶつけながら、踊り場まで落下。
「これは死ぬ」と覚悟した。途端に、眼前に走馬灯が出現。これまでの俺の人生が、途轍もない速さ、途轍もない明瞭さで蘇り、そして俺は後悔したんだ。
 料子の心尽くしのぼた餅。こんな死に方をするのなら、翌日の健康診断のことなど気にせず、あのぼた餅を食えばよかった! どうせこんな死に方をするのなら……!

 気がつくと、俺の前には、重箱に詰められたぼた餅があった。その向こうにあるのは、“今”より少し若い料子の優しい苦笑だ。
「ごめんなさい。健康診断のこと知らなくて」
 ぼた餅への執着が、俺の時間を戻した――のか? どういう理屈なのかはわからなかったが、死の淵から蘇った俺は、歓喜して料子のぼた餅を貪り食い、その結果、見事に(?)糖尿病の診断を受けたんだ。そうして始まった俺の節制生活――。
 食の喜びがない生活は、俺をアルコールに追いたてた。俺は、酒が切れると料子に暴力を振るうようになり、結婚三年で離婚。離婚後、自暴自棄という銘酒に逃げた俺は、酔っぱらって、またしても階段を踏み外した。
 二度目の走馬灯を見た俺は、料子との結婚を悔いた。俺と結婚しさえしなければ、料子は不幸にならずに済んだのに――と。

 俺はまた過去に戻った。ぼた餅事件の二ヶ月前、俺たちが結婚前提の同棲を決めた日に。
 その日、俺は断腸の思いで料子の前から姿を消したんだ。すべては料子の幸せのために。
 かくして、独身一人暮らし男の定番コース、カップ麺生活が始まる。若いうちはよかったが、三十になるなり、俺の腎臓は音を上げた。俺は健常者の生活が送れなくなった。
 そして、また後悔だ。俺は、今度は、自分の意思で階段を転げ落ちた。三度目の走馬灯での俺の後悔は、「中学の家庭科の調理実習をさぼらなきゃよかった」だった。

 中学生から人生を生き直し、俺は料理が趣味の男に生まれ変わった。フレンチ、イタリアン、カレーにラーメンまで、何でもござれ。これには料子が大喜び。俺は料子に逆プロポーズされ、もちろんOKした。
 結婚後、俺に胃袋を掴まれた料子の体重は、着実に増加の一途を辿った。料子に胃袋を掴まれていた頃の俺のように。
 だが、それが何だ? アル中の俺に蹴られ殴られ憔悴していく料子を見ているよりずっといい。孤独なカップ麺生活の百倍もましだ。
 これでやっと俺たちは幸せになれる。そう信じていたのに、結婚三年目のある日、料子がマンションの階段を転げ落ちた。
「料子!」
「私、もうだめみたい。こんなことなら、去年の結婚記念日にあなたが作ってくれたティラミス、食べておけばよかったわ。さすがに七十キロの大台に乗ったら、あなたに嫌われると思って我慢したの」
 馬鹿な。そんなことで俺がおまえを嫌いになるわけがないだろう。俺はおまえを幸せにするために、今の人生を生きているんだぞ!
「大丈夫だよ、料子。俺たちはまた会える。こんなことなら、あのティラミスを食っておけばよかったと、強く念じるんだ……!」
 少しずつ重みと冷たさを増していく料子の身体を抱きしめ、泣きながら、俺は料子に言い募った。食欲という名の愛があれば、きっと俺たちは再会できると信じて。
(了)